【第十五話】硝子の向こうの日常
目が覚めたとき、最初に感じたのは、喉の渇きと、少しだけ痛む腰の違和感だった。
ふかふかの魔法のベッドではなく、佐藤くんが「客用だから」と引っ張り出してきた、少し硬い三つ折りマットレスの上。
「……ん」
カーテンの隙間から差し込むのは、目に刺さるような黄金色の光ではない。曇り空を透かした、どこか頼りない灰白色の光。
部屋の中には、蜜柑の香りも檸檬の清潔感もない。ただ、微かに残る昨夜のお粥の匂いと、佐藤くんが使っている少し安っぽい洗剤の匂いが漂っている。
(……ああ、生きてる)
私はゆっくりと体を起こした。
シロップに溺れていたときのような気だるさはもうない。代わりに、空腹という、残酷なまでに健全な信号が胃のあたりから届いていた。
「あ、起きた? おはよう、陽菜さん」
キッチンの方から、寝癖を爆発させた佐藤くんが顔を出した。
手には使い古されたトースターで焼いた、少し角が焦げた食パン。
「一限、間に合うように準備したけど……まだ体調、キツいかな」
「……大丈夫。ちょっとお腹が空いただけ」
「そっか、よかった。じゃあ、これ。マーガリンしかないけど、食べて」
出されたパンは、キイチが作った豪華な朝食とは比べものにならないほど質素だった。けれど、噛み締めるたびに口の中に広がる小麦の味は、どんな幻覚よりも力強く私の血肉になっていく気がした。
**
一週間ぶりの大学のキャンパスは、驚くほど「無関心」だった。
私が「呪い」の檻に閉じ込められ、あんなに凄絶な一週間を過ごしていたなんて誰も知らない。学生たちは昨日と変わらず講義に追われ、中庭ではサークル勧誘の声が響き、学食からはカレーの匂いが漂ってくる。
かつての私なら、この「自分がいなくても回っていく世界」に耐えきれず、また部屋に閉じこもって甘い幻想を呼び出していたかもしれない。
けれど、今は隣に、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる佐藤くんがいる。
「……あ、陽菜」
ゼミの棟に入ったとき、数少ない知人の女子学生に声をかけられた。
「一週間も休んでどうしたの? 先生、結構怒ってたよ。レポートの提出期限、昨日までだったし」
その言葉は、冷たい氷の粒のように私の肌を打った。
これが現実だ。
誰かが私の代わりに課題を終わらせてくれることはない。笑顔でサボりを許してくれる神様もいない。犯したミスの責任は、すべて自分の肩に跳ね返ってくる。
「……ごめん。体調崩してて。今日、先生に謝ってくる」
「ふーん、まあお大事にね」
彼女はそれだけ言うと、スマホを弄りながら去っていった。
かつてのネモなら「効率の悪いコミュニケーションだ」と切り捨てたかもしれないし、コウなら「あんな子の言うことなんて聞かなくていい」と甘やかしただろう。
私はぎゅっと教科書を抱きしめた。
「……大丈夫か?」
佐藤くんが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「……うん。ちょっとだけ、冷たいなって思っただけ。でも、これが『普通』なんだよね」
「そうだな。現実は、俺達に都合よくはできてない。……でも、だからこそ、たまにいいことがあると嬉しいんだよ」
佐藤くんはそう言って、自販機で買った温かいカフェオレを私の頬にぴたっと押し当てた。
「これ、さっき買った……あげるよ」
「ありがと。……あったかい」
プラスチック越しのぬくもり。
それは、私の歪んだ解釈が作り出したものではない、佐藤くんという他人が、自らの意思で私にくれた、本物の善意だった。
私は、窓ガラスに映る自分の姿を見た。
顔色はまだ悪いし、髪も少し傷んでいる。でも、その鏡の中に、もう「シロップ男子」たちの姿は見えない。
――はずだった。
講義室の隅。
誰も座っていないはずの席に、ふと、苺のような鮮やかな「赤」が見えた気がして、私は足を止めた。
「……キイチ?」
小さく呟いて目を凝らすと、そこにあったのは、誰かが忘れていった赤いスポーツタオルだった。
「……どうしたの?」
「……ううん。なんでもない。ちょっと、視力が落ちたのかも」
私は無理に笑って、佐藤くんの隣の席に座った。
呪いは解けた。
けれど、私の「想像を現実に適応させる」という一族の血は、まだ私の体の中で、静かに、そして深く、眠っているだけなのかもしれない。
***
教授の部屋のドアをノックする音は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
「――失礼します」
入った瞬間に感じたのは、古びた紙の匂いと、ネモの整然とした完璧さとは対極にある、雑然とした知識の堆積だった。
教授は眼鏡をずらし、パソコンの画面から目を離すと、ひどく億劫そうに私を一瞥した。
「ああ、陽菜さん。一週間、音沙汰なしでしたね」
そこには「心配」も「怒り」もなかった。あるのは、一人の学生が義務を怠ったという「事実」に対する淡々とした処置だけ。私は頭を下げ、震える声で体調不良を詫びたが、教授は声色を変えず答えた。
「事情はどうあれ、ゼミの発表を飛ばしたのは事実です。今回のレポートは受理できません。体調不良でも、分かった時点で連絡をしてきてください。単位については、学年末の試験で死ぬ気で点を取りなさい。いいですね」
「……はい。申し訳ありませんでした」
部屋を出た瞬間、膝の力が抜けそうになった。
かつての私なら、ここで無意識に「解釈」を使っていたはずだ。教授を優しくさせ、欠席をなかったことにし、自分に都合のいい世界を再構築して。
けれど、今はその力の引き出し方がわからない。あるいは、隣で見守っている佐藤くんの「現実的な視線」が、私の呪いを封じ込めているのかもしれない。
「……厳しかった?」
廊下の壁にもたれかかって待っていた佐藤くんが、小走りで寄ってくる。
「……うん。単位、危ないって。自業自得なんだけど……やっぱり、現実は甘くないね」
私が自嘲気味に笑うと、佐藤くんは私の頭を、少し乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「甘くないなら、無理に飲み込まなくていいよ。……よし、今日はもう帰ろう。なんか美味しいの食わせる」
連れて行かれたのは、駅前にある騒がしいファミリーレストランだった。
キイチが用意してくれた最高級の苺のパフェでも、コウと一緒に溶けていた蜜のようなまどろみでもない。
呼び出しチャイムの音、子供の泣き声、厨房から流れる油の匂い。
佐藤くんは慣れた手つきでドリンクバーのメロンソーダを二つ運んでくると、一番安いハンバーグセットを注文した。
「……ここ、よく来るの?」
「テスト前とか、バイトの後とかね。ここのポテト、塩気が強くて目が覚めるんだよ」
運ばれてきたハンバーグは、形が少し不揃いで、ソースが鉄板で跳ねていた。
一口食べると、確かにジャンクな味がした。でも、それは私の脳が欲しがっていた、確かな「生」の重みだった。
「……ねえ、佐藤くん。私、思うの」
「ん?」
「一族の力って……きっと、一人でいることに耐えられない弱虫のための逃げ道だったんだと思う。世界を自分の色に塗り替えてしまえば、傷つくこともないし、否定されることもない。……でも、それって、誰とも繋がってないのと同じだったんだね」
私は、メロンソーダの氷をストローでつついた。
鮮やかな緑色の液体の中に、窓から差し込む夕陽が乱反射している。
「佐藤くんは、私がどんなに自分勝手な解釈をしても、絶対に私の思い通りにはならない。怒ったり、困ったり、勝手にポテトを食べたりする。……それが、こんなに安心するなんて思わなかった」
佐藤くんは口いっぱいにハンバーグを頬張ったまま、少しだけ顔を赤くして私を見た。
「……俺だって、たまにはカッコいいところ見せたいけどさ。でも、陽菜さんの前で『完璧』になろうとすると、あのシロップ野郎たちと同じになっちゃう気がして。……だから、俺は俺のままでいいかなって」
「……うん。そのままでいい。そのままがいい」
私は彼の手を、テーブルの下でそっと握った。
まだ少しだけ、指先から「力」の残滓が疼くような気がする。
でも、彼の手の温かさがそれを鎮めてくれる。
現実は、不公平で、厳しくて、ままならない。
けれど、その不自由な世界で彼と手を繋いでいるという事実が、どんな魔法よりも私の心を自由にしてくれていた。
帰り道。
夕闇に包まれた街路樹の影が、一瞬だけ、誰かの立っている人影に見えた。
――またね。
そんな幻聴が聞こえた気がして振り返ったけれど、そこには風に揺れる葉の音しかなかった。
呪いは消えつつある。
けれど、それは喪失ではなく、新しい日々の始まりなのだと。
私は佐藤くんの肩に頭を預け、明日という、予測不能な、不都合な未来へ向かって歩き出した。




