【第十四話】雨の体温、泥の現実
部屋を出た瞬間、肺に飛び込んできたのは、ひどく冷たくて重い、湿った空気だった。
朔が作り出していた静謐な和室は、もうどこにもない。佐藤くんに抱えられながら廊下を進む私の視界に映るのは、剥げかけた壁紙と、チカチカと不気味に明滅する共用部の蛍光灯。そして、鼻を突くのは、溜まったゴミの酸っぱい匂いだ。
「……あ、う……」
「大丈夫だよ。ゆっくり、ゆっくり行こう」
佐藤くんの腕は、震えていた。
完璧なエスコートだったこれまでの男子たちとは違う。彼は私の重みに喘ぎ、足元をふらつかせ、何度も「ごめん」と謝りながら、私をエレベーターへと運び込んだ。
マンションの外に出ると、激しい雨が私の肌を叩いた。
コウと一緒に見ていた永遠の青空が、嘘のように、空は重苦しい鉛色に染まっている。けれど、その雨の冷たさが、今の私には酷く愛おしかった。肌を刺すような寒さこそが、私がまだこの世界に生きているという証拠だったから。
「……俺の車、すぐそこだから。病院、行こう。君、本当におかしいよ。身体が、紙みたいに軽いんだ」
「……病院は、いいの。ただ、あそこから……あの部屋から、離れたいだけ」
私は佐藤くんのシャツをぎゅっと握りしめた。
彼は困ったように眉を下げ、迷う素振りを見せたが、最後には小さく頷いた。
彼の車――中古で買ったという小さな軽自動車の中は、芳香剤の匂いと、脱ぎっぱなしのジャージ、そして山積みの大学の資料で溢れていた。これまでの男子たちが決して許さなかった「生活の乱れ」がそこにはあった。
「……汚くてごめん。今、片付けるから……」
「いいの。……これが、本当の世界なんでしょ?」
私は助手席に深く沈み込み、窓の外を流れる雨粒を見つめた。
不思議だった。
あんなに執着していたシロップ男子たちの気配が、車内に満ちる「生活臭」に触れた瞬間、急速に遠ざかっていくのを感じた。
私の指先から、あの万能感が消えていく。世界を思うがままに塗り替え、理想を現実に固定していた「力」が、佐藤くんの不器用な優しさに溶かされて、ただの「疲れ」に変わっていく。
「……佐藤くん」
「なに?」
「私……あそこにいたのは、神様じゃなかったんだと思う」
私は、自分の膝を抱え、小さく呟いた。
「あれは、私の『呪い』だったんだわ。孤独に耐えられなくて、自分の都合のいいように世界を歪めて、自分自身をその中に閉じ込めていた……。お父さんがノートに残したかったのは、魔法の使い方じゃなくて、魔法という名の病気の治し方だったのかもしれない」
佐藤くんは、運転席でハンドルを握ったまま、黙って私の話を聞いていた。
彼は「そんなことないよ」と安易な慰めを口にはしなかった。ただ、雨音に混じって、彼が小さく息を吐く音が聞こえた。
「……俺には、陽菜さんが見ていたものは分からない。でも」
彼は一度言葉を切り、私の方を真っ直ぐに見た。
その瞳には、嘘も飾りもない、等身大の恐怖と誠実さが同居していた。
「……今の、弱りきって、ボロボロで、震えてる陽菜さんの方が、ずっと『生きてる』って感じがするよ。……俺は、こっちの君が好きだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
解釈によって作り上げられた「完璧な自分」ではなく、醜い現実の中で「不完全な自分」を受け入れられた瞬間。
私は思わず、彼の腕に手を伸ばした。
彼は驚いて肩を跳ねさせたが、避けることはしなかった。
暖かい。
シロップのような粘つく甘さではなく、少し熱っぽくて、どこか土の匂いがするような、生命の体温。
私は、彼という「現実」に、初めて心から甘えてみたいと思った。
***
佐藤くんのアパートは、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
狭い玄関にはスニーカーが散らばり、本棚からはみ出した参考書がタワーのように積まれている。けれど、その生活感が、今の私にはどんな名画よりも美しく見えた。
「あー……ごめん、本当に散らかってて。適当にその辺のクッション座ってて。今、何か温かいもの作るから」
彼は顔を赤くしながら、山積みの洗濯物をクローゼットに押し込んだ。
キッチンからは、トントンと拙い包丁の音が聞こえてくる。キイチのような鮮やかな手捌きでも、ネモのような計算された調理でもない。どこか危なっかしくて、一生懸命な音。
「……はい。これくらいしか出来なかったけど」
出されたのは、湯気が立ちのぼる、なんの変哲もないお粥と、少し焦げた卵焼きだった。
一口、お粥を口に運ぶ。
熱い。そして、微かに塩の味がした。
これまで食べてきた、脳を痺れさせるような暴力的な甘みではない。五臓六腑にじわじわと染み渡る、滋味深い「食べ物」の味。
「……おいしい」
「よかった。陽菜さん、ずっとシロップしか飲んでなかったんだろ? 胃がびっくりしないように、薄味にしといたから」
佐藤くんは私の向かい側に座り、照れくさそうに頭を掻いた。
私は彼を見つめた。
よく見れば、彼のシャツのボタンは一つ掛け違えているし、眼鏡は少し曇っている。でも、その「完璧じゃなさ」が、私に呼吸を許してくれるのだ。
「佐藤くん。……私、ずっと怖かったんだ」
「……うん」
「自分の思い通りに世界が書き換わるのは、最初はお姫様になったみたいで楽しかった。でも、気づいたら、自分がどこにいるのか分からなくなってた。……私が望むから彼らが来るんじゃなくて、彼らがいるから、私がそう望まされている……ような気がして」
私は、自分の細くなった指先を見つめた。
「一族のこの力は、祝福なんかじゃない。現実を見る勇気がない者にかけられた『呪い』なんだ。……でも、佐藤くんがドアを壊してくれた時、その呪いが解けた気がしたの」
佐藤くんは黙って聞いていたが、やおら立ち上がると、私の隣に移動して、ぎこちなく私の手を握った。
彼の掌は少し固くて、ペンだこがあって、何より、驚くほど熱かった。
「……俺は、難しいことは分からないよ。呪いとか、一族とか。……でも、俺がさっき殴った『見えない壁』は、確かにそこにあった。君を閉じ込めてる何かは、確かに存在したんだ」
彼は私の手を、包み込むように強く握り締める。
「だから、またあいつらが来そうになったら、俺を呼んで。何度でもドアをぶち破って、君を連れ出しに行くから。……君が『完璧な世界』で消えちゃうより、俺の部屋で一緒にカップ麺食べてる方が、何万倍もマシだ」
「……ふふ、最悪な誘い文句」
私は初めて、心から笑った。
笑いすぎて、少しだけ涙が出た。
佐藤くんは「あ、いや、もっといい店に連れて行くし!」と慌てていたが、私はそのまま、彼の肩に頭を預けた。
柔軟剤の匂いと、少しだけ混じる雨の匂い。
私はそっと目を閉じた。
もう、まぶたの裏に黄金色の光は差さない。
ただ、暗くて、静かで、安らかな闇があるだけ。
私が「何も願わない」ままでいられる。
そのことが、これほどまでに贅沢なことだとは知らなかった。
「……ねえ、佐藤くん」
「なに?」
「明日……一緒に、大学行けるかな」
「……ああ。一限から、叩き起こしてやるよ」
不器用な約束を胸に、私は深い眠りに落ちていった。




