【第十三話】沈黙の重石
コウが消えた後の部屋は、凄惨な「現実」の気配に満ちていた。
蜜柑の皮から溢れた油分は床を黒ずませ、湿り気を帯びた空気はカビの匂いを運んでくる。私は、その廃墟のようなリビングの中央で、動くこともできずに座り込んでいた。
――もう、いい。
何もしたくない。大学へ行くことも、食事を摂ることも、息をすることさえも面倒だ。
私は、父が送ってきた荷物の底に眠っていた、古い漆器の器に手を伸ばした。中には、まだ青く、石のように硬い「梅」が、重々しい沈黙を守って横たわっている。
「……来て。誰でもいい、私を、この現実から消して……」
指先の傷から、赤い血が一滴、青い梅の表面を滑り落ちた。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
湿ったカビの匂いは、透き通るような、けれどどこか刺すような「青梅」の香りに塗り替えられた。
ボロボロのフローリングは、しっとりと冷たい濡れ縁と、目の詰まった美しい畳へと姿を変える。
気づけば私は、都会のマンションの一室ではなく、深い霧に包まれた古い寺院のような、静謐な和室に座っていた。
「……私の言葉が、聞こえたの?」
目の前に、その男はいた。
墨色の着物を無造作に纏い、長い黒髪を後ろで束ねた男。
彼はこれまでの男子たちのように、微笑みかけることも、厳しく律することもしなかった。ただ、古びた重石のように、私の隣にどっしりと座り、どこか遠い場所を見つめている。
「……朔と、呼びなさい」
低く、重厚な声。
彼が口を開いただけで、部屋の重力が二倍になったかのような圧迫感を感じた。
「朔……。あなたは、私をどうしてくれるの? キイチみたいに熱くしてくれる? ネモみたいに導いてくれる? それともコウみたいに……」
「何もせん」
朔は私を遮り、冷ややかな視線を向けた。
「お前は、熟しすぎた。苺の甘えも、檸檬の規律も、蜜柑の退廃も……すべてはお前の、解釈という名の毒だ。私はただ、その毒が抜けるまで、お前を押さえつけるだけの石に過ぎん」
朔の手が、私の肩に置かれた。
驚くほど重い。それは体温を感じさせないほど冷たく、けれど確かな実在感を持って私の体を畳へと押し付ける。
――苦しい。
彼と一緒にいると、思考が停止する。
逃げ出そうとしても、その重圧が私の足を縛り付ける。
これが、梅の性質。
塩にまみれ、重石を乗せられ、ただじっと耐えることでしか、その毒を抜くことはできない。
「……お父さんのノートに書いてあったのは、このことなの? 私は、自分の想像で世界を塗りつぶしていたんじゃなくて、自分を毒していただけなの……?」
「一族の者は皆、そうやって自分自身の解釈という檻に閉じ込もる。……外の世界は醜く、不条理だ。だからお前は、美しい幻覚を求めた。だが、陽菜。……幻覚は腹を満たさん」
朔の言葉は、鋭い針のように私の胸を刺した。
部屋の外では、時折、現実の工事の音や車の騒音が、霧を切り裂くように微かに聞こえてくる。そのたびに、朔は私の肩を強く押し込み、その音を聞こえなくさせる。
「見るな。聞くな。……今のままの、無力なままでいろ」
それは、究極の停滞だった。
思考を奪われ、朔という「重石」の下で、私はただ腐敗を待つだけの果実になっていく。
視界の端で、和室の壁が時折ノイズのように歪み、その向こう側に、ゴミの散らばった本当の自分の部屋が透けて見える。
その乖離に、私は吐き気を催した。
そのとき。
――ドンドン! ドンドンドンドン!!
和室の静寂を打ち破る、野蛮で、けれど必死な叩打音が響いた。
朔の眉が、不快そうに動く。
「陽菜さん!! 陽菜さん、いるんだろ!? 開けてくれ!!」
聞き慣れた、少し裏返った声。
佐藤くんだ。
彼の声は、朔が作り上げた静謐な和室を、容赦なく、そして泥臭く土足で踏み荒らしてきた。
「帰れ。ここにお前の求める『真実』などない」
朔が冷たく呟き、部屋の境界をさらに強固に閉じようとする。
けれど、佐藤くんの声は止まらなかった。
「……臭うんだよ!! 外まで、変な匂いがしてるんだ! 陽菜さん、頼む、返事をしてくれ!!」
私は、朔の腕の中で震えた。
佐藤くんには、私が見ているこの美しい和室が見えていない。
彼に見えているのは、異臭を放ち、現実から剥離した異常な部屋と、その中に閉じこもった一人の哀れな女。
――助けて。
私の喉の奥で、小さな声が震えた。
それは、これまでの完璧な男子たちには一度も向けたことのない、本物のSOSだった。
***
「陽菜さん!! 頼む、開けてくれ!!」
佐藤くんの叫び声とともに、玄関の方で激しい衝撃音が響いた。
この[静謐な和室]という結界が、外側から物理的に壊されようとしている。朔の冷たい指先が、私の喉元に触れた。
「……愚かな。あれは、お前に痛みしか与えんぞ」
朔の声は、凍てつく冬の底のように低く響く。
彼の存在そのものが、私の思考を鈍らせる重石だ。彼の手が私に触れているだけで、私は畳に沈み込み、指一本動かすことができなくなる。
「あ……さ、佐藤くん……っ」
「呼ぶな。そ奴を見れば、この平穏は終わる。お前はまた、あの醜い日常に引きずり戻されるのだ」
朔が私の視界を塞ごうとした、その時だった。
――バキ……という凄まじい破壊音。
和室の美しい障子が、まるでテレビの砂嵐のように乱れ、消滅した。
そこには障子などなかった。ただ、強引に鍵を壊して飛び込んできた、肩で息をする佐藤くんの姿があった。
「陽菜、さん……っ!」
佐藤くんが、部屋の中へと踏み込む。
その瞬間、私と彼の間にある「世界」が二つに割れた。
私の目に見えているのは、月光に照らされた凛々しい朔と、格調高い和室だ。
けれど、佐藤くんの瞳に映っているものは、全く別だった。
「……なんだよ、これ。何なんだよ、この部屋は!!」
佐藤くんは、吐き気を催したように口元を抑えた。
彼の目線が追う先を、私も無理やり凝視しようとする。解釈のフィルターが剥がれ落ち、そこにある「本当の光景」が断続的にフラッシュバックする。
畳に見えていたのは、足の踏み場もないほど散らばった生ゴミと、腐敗して真っ黒になった果実の残骸。
凛々しい朔の手だと思っていたものは、私の首を絞めるように巻き付いた、古びたカーテンの端。
そして、私の最愛の「シロップ男子」たちがいたはずのキッチンには、得体の知れないカビと、異臭を放つ液体の溜まった瓶が、無残に並んでいる。
「……ひどい匂いだ。アンモニアと、腐った果実が混ざったような……。陽菜さん、君、ずっとこんなところにいたのか!? その格好……ガリガリじゃないか!」
佐藤くんの声が震えている。
彼は私の方へ駆け寄ろうとしたが、何もない空間――私にとっては朔が座っている場所――に、見えない壁があるかのように跳ね返された。
「来るな。陽菜は今、毒を抜いている。……お前のような不純物が触れていい器ではない」
朔が静かに立ち上がった。
私には、彼が巨大な影となって佐藤くんを威圧しているように見える。
けれど、佐藤くんには朔が見えない。見えない何かに押し返され、転び、それでも彼は必死に立ち上がろうとする。
「誰だ……誰かいるのか!? 陽菜さん、そこに誰がいるんだ!」
「……佐藤くん、逃げて! 朔が、あなたが怪我をするって……っ!」
私が叫ぶと、佐藤くんは一瞬、呆然と私を見た。
そして、その瞳に深い悲しみが宿る。
「……誰もいないよ。陽菜さん、そこには誰もいない。君は、自分の影と喋ってるんだ……!」
その言葉が、私の「解釈」という名の心臓を貫いた。
――嘘だ。
キイチはあんなに熱かった。ネモはあんなに正しかった。コウはあんなに優しかった。
そして、朔のこの「重み」は、こんなにリアルなのに。
「……陽菜。聞こえるか、これが現実の音だ。そやつの言葉は、お前を抉る刃でしかない」
朔が手を伸ばし、私の意識を再び深い眠りへと引き戻そうとする。
だが、佐藤くんは諦めなかった。
彼は迷い、戸惑い、恐怖に顔を歪めながらも、目に見えない「何か」に向かって、拳を振り上げた。
「……見えなくたって、わかる。陽菜さんを苦しめてるものが、そこにあるんだろ!」
佐藤くんは、闇雲に空を殴り、蹴り、何度も転びながら私へと近づいてくる。
完璧なシロップ男子たちなら、決して見せないような、無様で、滑稽で、けれど圧倒的な、生の熱量。
「陽菜さん!! 俺だって怖いよ! 君が何を言ってるのか分からなくて、この部屋が狂ってるみたいで……逃げ出したくてたまらないんだ! でも……!」
佐藤くんが、ついに私の手首を掴んだ。
朔の冷たさではない。
汗ばんでいて、震えていて、血が通っている――不完全な人間の、熱い体温。
「……でも、君をこんなところに置いていけない!! 一緒に帰ろう、陽菜さん。……普通の、面白くない、雨が降ってて、お腹が空く、現実の世界に!」
その瞬間、私の視界を埋め尽くしていた美しい和室が、ガラスが砕けるような音を立てて崩壊した。
朔の姿が、夕霧の中に消えていく陽炎のように揺らぐ。
「……あ、あ……」
私の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは琥珀色のシロップでも、青い毒でもない、ただの、しょっぱい涙だった。
私は、佐藤くんのシャツを必死に掴んだ。
重石の下から解放された呼吸は、喉を焼くほどに痛かった。




