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シロップ男子。~賞味期限付きの愛~  作者: ぐうすけ


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【第十二話】蜜の濁流

 時間の感覚が、完全に死んでいた。

 

 まどろみの中で目を覚ますと、視界のすべてが琥珀色の光に満たされている。

 窓の外には、相変わらずあの「永遠の青空」が広がっていた。けれど、何かがおかしかった。空の色はあまりに鮮やかすぎて、まるで塗り立てのペンキのように、見つめていると目がチカチカと痛む。


「……ねえ、コウ。なんだか、空気が重いよ」


 私が呟くと、隣で私の髪を弄んでいたコウが、喉の奥でクスクスと笑った。


「重い? それはきっと、この部屋が幸せで満たされているからだよ、陽菜ちゃん。幸せすぎるんだ。……ほら、見て。あそこ」


 コウが指差した天井の隅。

 白い壁紙の継ぎ目から、どろりとした、透明な黄金色の液体が染み出していた。それは雫となってゆっくりと重力に従い、床に落ちる。


 ――ポタリ。


 それは水ではなかった。床に落ちた瞬間、部屋中に噎せ返るような蜜柑の香りが爆発する。

 一滴、また一滴。

 天井から降り注ぐ「蜜」は、次第にその数を増し、まるで部屋の中に甘い雨が降っているような光景を作り出していた。


「……あ、あつい……」


 肌に触れた雫は、驚くほど熱を持っていた。

 私はソファーに横たわったまま、その「熱い蜜」を全身に浴びる。ブラウスが透け、肌に張り付き、甘い液体が体の曲線に沿って流れていく。

 不快なはずなのに、私の脳はそれを「最高の癒やし」だと理解した。

 

 ――これは雨じゃない。私を祝福する、温かな蜜のシャワーなんだ。


 そう思った瞬間、私の耳には聞こえていたはずの「現実の雨音」が完全に消えた。

 佐藤くんがいた時に感じた、あの湿気も、冷たさも、恐怖も。

 すべてがこの「想像の重力」によって、琥珀色の底へと沈んでいく。


「いいよ、陽菜ちゃん。……もっと、君の好きなように世界を書き換えて」


 コウが私の体の上に乗ってくる。

 彼の肌もまた、滴り落ちる蜜で濡れて光っていた。

 彼は私の唇に指を差し込み、口内に溜まった甘い液体をかき回す。


「君が『甘い』と思えば、この世界に苦しみなんて存在しなくなる。君が『いらない』と思えば、面倒な他人も、義務も、全部消してあげられる。……ねえ、もっと深く、僕の解釈と混ざり合おう?」


 コウの瞳が、黄金色に輝く。

 私は彼に首筋を委ねながら、朦朧とした意識の中で、父のノートの言葉を思い出していた。


『洞窟の外側を解釈し、現実に適応させる力……』


 もし、今、私の目の前で起きているこの「蜜の雨」が、私の解釈そのものだとしたら。

 私の精神は、すでに自力で現実に立ち返ることができないほど、摩耗している。

 

 ふと、視界の端に、真っ二つに割れたあの「ネモの瓶」が映った。

 キッチンの隅に放置されていたはずのガラスの破片が、いつの間にか蜜の濁流に呑まれ、オレンジ色の液体に浮いている。

 

 その破片が、一瞬、鋭く光った。

 

 ――パリン。

 

 部屋のどこかで、何かが砕けるような音がした。

 それは幻聴だったかもしれない。けれど、その音を聞いた瞬間、私の「黄金色の世界」に、わずかなヒビが入った。

 

 滴り落ちる蜜の雨。

 その中に、一滴だけ。

 

 ――鉄のような、生臭い匂いのする「赤い液体」が混ざっているのが見えた。


「……っ、コウ。今、赤いのが……」

「何も見えてないよ。陽菜ちゃんが見ているのは、オレンジ色の、綺麗な世界だけでしょ?」


 コウの手が、私の視界を優しく塞ぐ。

 

「……いいんだよ。余計なものは、僕が全部消してあげるから。……君はただ、僕の腕の中で、とろけていればいいの」


 彼の囁きとともに、また意識が遠のいていく。

 けれど、塞がれた視界の裏側で、私は確かに感じていた。

 

 部屋の中に降り注いでいるのは、甘い蜜なんかじゃない。

 それは、私の精神が削り取られ、溶け出した、剥き出しの「生の痛み」そのものなのではないかという、恐怖を。



***



「……ねえ、コウ。息が、苦しいの」


 ソファーの上で、私は喘ぐように声を漏らした。

 天井から降り注ぐ蜜は、もはや雫というレベルを超えていた。琥珀色の粘り気のある液体が、部屋の床を数センチの深さで満たし、私の指先や髪を絡め取っていく。

 

 甘い。あまりに甘すぎて、肺の奥まで蜜柑のシロップで塗り潰されるような錯覚。

 コウは私を抱きしめたまま、その蜜の海に顔を半分沈め、悦びに満ちた瞳で私を見ていた。


「いいんだよ、陽菜ちゃん。呼吸なんて、そんな面倒なことしなくていい。僕の味だけを吸って、僕の一部になっちゃえばいいんだ。……外の世界の酸素なんて、君を傷つけるだけなんだから」


 彼の言葉とともに、彼の肌から無数の繊維のようなものが伸びてくるのが見えた。

 それは蜜柑の皮を剥いたときに見える、あの白い筋のようだった。その細く、けれど強靭な繊維が、私の手首や足首に巻き付き、私をソファーへと縫い付けていく。


「……っ、痛い、これ……」

「痛みじゃないよ。それは『執着』っていう、一番強い愛だよ」


 コウの笑顔から、先ほどまでの「日向のような温かさ」が消えていた。

 代わりに現れたのは、熟しすぎて発酵を始めた果実のような、頽廃的で攻撃的な色気。

 彼は私の胸元に顔を埋めると、そこにある「赤い雫」――蜜に混じった私の血を、舌で乱暴に掬い上げた。


「……ああ、美味しい。陽菜ちゃんの苦痛が、僕をさらに甘くしてくれる」


 その瞬間、私の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。

 視界を埋め尽くしていた「永遠の青空」が、テレビの砂嵐のように激しく明滅し始める。

 

 青空の向こう側に、一瞬だけ、現実の景色が透けて見えた。

 そこにあるのは、豪雨に打たれ、カビの臭いが立ち込める、荒れ果てた私の部屋。

 佐藤くんが「変な匂いがする」と言った、あの現実。

 床に広がっているのは甘い蜜なんかじゃない。私が無意識に自分を傷つけ、あるいは部屋中のものをなぎ倒して溢れさせた、混沌とした残骸。


「――嘘だ。見たくない、そんなの!!」


 私は叫んだ。

 自分の「解釈」を必死に守ろうと、想像の力を振り絞る。

 けれど、一度入った亀裂は止まらない。

 

 蜜の海に浮いていた「ネモの瓶」の破片。

 その鋭い硝子が、私の腕を浅く切り裂いた。

 

 鋭利な、冷たい痛み。

 

 それは、ネモがかつて私に叩き込んだ「論理」という名の救済だった。

 この痛みだけが、コウが作り上げる「甘い泥沼」から私の意識を引き戻してくれる。


「コウ、離して……。私は、洞窟に帰る……。影の中でも、いいから……!」

「ダメだよ。君はもう、光を知っちゃったんだ。今さらあの汚い影の世界に戻っても、絶望するだけだよ」


 コウの繊維が、私の首筋にまで伸びてくる。

 彼は私の唇を塞ぎ、自分の唾液とともに、濃縮された蜜を流し込んできた。

 

 意識が混濁する。

 快楽と窒息。

 愛と殺意。

 

 その境界線が溶け合い、私は自分が「陽菜」という個体であることを忘れそうになる。

 私は、コウという果実を飲み込みすぎたのだ。

 

 だが、そのとき。

 

 カレンダーが、ついに「七日目」の終わりを告げた。

 

 部屋を埋め尽くしていた琥珀色の光が、一瞬で収束していく。

 

「……あーあ。時間切れか」


 コウが、不機嫌そうな子供のような顔で呟いた。

 私を縛り付けていた白い繊維が、砂のように崩れ、溶けていく。

 

「陽菜ちゃん。……君の想像力は、本当に最高だったよ。僕をこんなに『重く』してくれたのは、君が初めてだ」


 コウは私の額に、冷たくなった唇を寄せた。

 

「でも、気をつけてね。……次に来る人は、きっと僕みたいに優しく溶かしてはくれないよ。……君のその力、自分でも気づかないうちに、もっとえぐいものを引き寄せてるんだから」


 コウの姿が、夕闇に溶ける蜜柑の香りのように、希薄になっていく。

 彼は最後に、私が買ったあの安物の瓶を指差した。

 

 瓶は、内側から爆発したかのように、粉々に砕け散っていた。

 

「バイバイ、陽菜ちゃん。……また、お腹が空いたら呼んでね」

 

 フッ、と気配が消えた。

 

 次の瞬間、私は激しい寒気に襲われた。

 

 目の前に広がっていたのは、黄金色の天国ではない。

 窓の外は夜の嵐。部屋の中は、倒れた家具と、割れた硝子、そして湿り気を帯びた埃の匂い。

 

 私が「蜜」だと思い込んでいたものは、ただの出しっぱなしにしていた水道の水と、床に散らばった蜜柑の腐敗した果汁だった。

 

「……う、あ……」

 

 喉の奥に、蜜柑の皮特有の、あの「苦味」がこびりついている。

 全肯定の果てにあったのは、自立の術を失い、廃墟と化した自分の精神だけだった。

 

 私は震える手で、父のノートを抱きしめた。

 

 ネモの時のような「喪失感」ではない。

 コウが去った後に残されたのは、もっとドロドロとした、逃げ場のない「渇き」だった。

 

 ――もっと、強い力が欲しい。

 ――この惨めな現実を、一瞬で、暴力的に、美しく書き換えてくれる何かが。

 

 私は暗闇の中で、冷蔵庫の奥に眠っている「次の果実」のことを考えた。

 それは、梅雨の終わりとともに届いた、箱詰めされた果実。

 

 そのままでは食べられない、酸っぱくて、硬くて、毒を孕んだ――。

 

「……お父さん。私、もう戻れないよ」

 

 私は、割れた硝子の破片で再び指を切り、その血を、新しい瓶の代わりに用意した「漆器の器」へと垂らした。

 

 重苦しい「梅」の香りと共に、幕が静かに上がり始めていた。

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