【第十一話】蜜の檻、外の世界
「ねえ、陽菜ちゃん。また時計見てる。……そんなの見なくていいのに」
背後から伸びてきたコウの腕が、私の視界を優しく遮った。
オレンジ色のパーカーから漂う、日向の匂い。彼は私の肩に顎を乗せると、ふにゃりと力を抜いて私に体重を預けてくる。
「……だって、もうお昼過ぎだよ。コウとこうして過ごすようになってから、なんだか一日の感覚がおかしいの」
壁にかかった時計の針は、確かに午後二時を指している。
けれど、窓の外を見ても、それが「今日」の午後二時なのか、あるいは「昨日」の続きなのか、判然としない感覚があった。
部屋の中は、いつも完璧な「陽だまり」の中にあった。
梅雨明けの蒸し暑さも、都会の騒音も、この部屋のドア一枚を隔てた瞬間に消え失せる。空調の音すら聞こえない静寂の中で、コウが剥いてくれる蜜柑の甘い香りと、柔らかな音楽だけが満ちている。
ネモがいた頃は、あんなに「正しくあろう」と背筋を伸ばしていたのに。
今の私は、ソファーから立ち上がることさえ億劫だった。コウが与えてくれる全肯定のぬるま湯。その心地よさに、私の脳は少しずつ溶かされ、思考の輪郭がぼやけていく。
「いいんだよ、時間は。……陽菜ちゃんが『今が一番幸せ』って思ってれば、世界はずっとそのままでいてくれるんだから」
コウが私の耳たぶを甘く噛む。
その瞬間。
――ピンポーン。
静寂を切り裂く、鋭いチャイムの音。
私はビクリと肩を揺らした。それは、この数日間、一度も耳にしなかった「外の世界」からの干渉だった。
「……誰だろう。宅急便かな」
「……無視しちゃいなよ。せっかくいいところだったのに」
コウの声が、わずかに低くなる。
けれど、チャイムは二度、三度と執拗に鳴り響いた。
私は、重い鉛を飲み込んだような胃の不快感を感じながら、ゆっくりと立ち上がった。コウの腕が名残惜しそうに私の腰から滑り落ちる。
「……ちょっと、見てくるね」
玄関に向かう廊下。
ふと、違和感に足が止まった。
廊下の壁。そこにかけていたはずの、ネモが「効率的だ」と言って選んだカレンダー。
そこに並んでいる数字が、なぜか読めない。
文字が掠れているのではない。ただ、認識しようとすると、視界がぐにゃりと歪み、数字がただの無意味な線の塊に見えてしまうのだ。
(……おかしいな。目が疲れてるのかな)
私は目をこすり、ドアスコープを覗き込んだ。
そこに立っていたのは、傘を持った佐藤くんだった。
「……佐藤くん?」
ドアを開けると、そこにはひどく現実的な「湿気」を纏った彼が立っていた。
彼のシャツは雨で少し濡れていて、表情には焦燥感が滲んでいる。
「……陽菜さん! よかった、いたんだ……」
「佐藤くん……どうしたの、こんなところで」
「どうしたのも何も、ゼミの先生が心配してるんだよ。陽菜さん、一週間も連絡がつかないし、大学にも来てないし……。ラインも既読にならないから、何かあったんじゃないかって……」
一週間。
その言葉が、私の頭の中に響く。
コウが来てから、まだ三日くらいだと思っていた。その前の空白期間を含めても、そんなに時間が経っていたなんて。
「……ごめん。ちょっと体調を崩してて。……あの、雨、降ってるの?」
私が問いかけると、佐藤くんは怪訝そうな顔をした。
「……え? 降ってるよ、かなりの大雨。さっきから雷だって鳴ってるのに、聞こえなかった?」
私は思わず、自室の方を振り返った。
そこには、暖かなオレンジ色の光に満ちた、穏やかなリビングが見える。
窓の外は、私の目には「抜けるような青空」に見えていた。
けれど、佐藤くんの背後にあるマンションの廊下には、叩きつけるような雨粒が飛び込んできている。
「……陽菜さん、大丈夫? なんだか、顔色が……。それに、その部屋」
佐藤くんが、開いたドアの隙間から中を覗き込もうとした。
「なんだか、変な匂いがする。……すごく甘くて、こう、頭が痛くなるような……。それに、その……奥に誰かいるの?」
佐藤くんが足を踏み出そうとした、その時。
「――お邪魔ですよ、お客様」
いつの間にか背後に立っていたコウが、私の肩を力強く抱き寄せた。
佐藤くんの顔が、一瞬で凍りつく。
「……陽菜さん、この人は?」
「ああ、陽菜ちゃんの『家族』みたいなものかな。彼女、今はとても疲れてるんだ。現実の難しい話は、今は毒になっちゃうから。……ねえ、君も。そんなに濡れて歩いてたら、風邪引いちゃうよ?」
コウは佐藤くんに向かって、いつもの「ひだまりのような笑顔」を向けた。
けれど、その笑顔を見た瞬間、佐藤くんは恐怖に目を見開いた。
「……ひ、陽菜さん。その人、何なんだよ。……というか、君、何を……」
「佐藤くん……?」
「陽菜さん、その部屋、おかしいよ!! 蜜柑なんてどこにもないのに、床一面に……っ!」
佐藤くんが叫ぼうとした言葉が、途中でかき消された。
私の視界が、ふっとオレンジ色に明滅する。
次の瞬間。
佐藤くんは、なぜかドアの外ではなく、数メートル離れた廊下の端に立っていた。
「……え?」
時間が飛んだような、奇妙な感覚。
佐藤くん自身も何が起きたか分かっていないようで、呆然と自分の手を見つめている。
「……さようなら、佐藤くん。陽菜ちゃんには、僕が必要なんだ。君の世界の『正しさ』は、ここには持ち込まないで」
コウが静かにドアを閉めた。
カチリ、と鍵がかかる音。
その音とともに、雨の音も、佐藤くんの叫び声も、一瞬ですべて消え去った。
振り返ると、部屋はまた、静かで温かな「陽だまり」に戻っていた。
「……コウ、今のは……」
「何でもないよ。陽菜ちゃんが『彼に帰ってほしい』って思ったから、そうなっただけ」
コウは私の頬を両手で包み、じっと見つめてくる。
その瞳は、蜂蜜のようにどろりと濁り、底の見えない深淵を湛えていた。
「ここは、君の帝国だよ。……君が望むものだけが、ここにある現実なんだ」
私は、自分の手を見た。
震える指先が、空気に触れる。
その空気は、確かに蜜のように重く、私の意思に従って形を変えようとしているかのように感じられた。
***
静寂が戻った部屋の中で、私は自分の指先を見つめていた。
つい数秒前、佐藤くんがいたはずの場所。扉の向こう側からは何の音も聞こえない。激しい雨音も、彼がドアを叩く音も、まるですべてが最初から存在しなかったかのように、私の耳には届かなかった。
「……ねえ、コウ。佐藤くんは、どこに行ったの?」
私の問いに、コウは私の背後からそっと首筋に顔を寄せた。
「さあ? 彼のいるべき場所に戻っただけじゃないかな。……雨の中の、冷たい世界に」
コウは私を抱き上げたままソファーへと運び、自分もその隣に座り込む。彼はテーブルの上に置かれた父の古いノートを、興味なさそうに指先で弾いた。
「陽菜ちゃん。プラトンの『洞窟の比喩』って知ってる?」
「……名前くらいは。大学の講義で、少しだけ」
「洞窟の中に閉じ込められた囚人たちは、背後の火によって壁に映し出される『影』だけを見て、それを真実だと思い込んでいる。……でも、本当の世界は洞窟の外にあって、そこには強烈な太陽が輝いているんだ」
コウの声は、まるで眠りを誘う子守唄のように穏やかだった。
「普通の人間は、洞窟の外へ出ると太陽の眩しさに目が眩んでしまう。影の世界の方が居心地がいいって、逃げ帰っちゃうんだ。……でもね、君の一族は違う」
コウは私の手を取り、自分の頬に当てさせた。その肌は驚くほど柔らかく、そして生きている人間とは思えないほど完璧に整っている。
「君たちは、洞窟の外にある『イデア』――最も純粋で完璧な想像を、自分の解釈で染め上げて、この洞窟の壁……つまり『現実』に直接投射できる。……影が気に入らなければ、自分の望む色で塗りつぶしてしまえばいい。世界は客観的な事実なんかじゃなくて、君というフィルターを通した『解釈』そのものなんだよ」
私は息を呑んだ。
想像を現実に適応させる力。
私が「一人でいるのは寂しい」と切望し、果実を瓶に詰めた時、私の解釈が「理想のパートナー」をイデアの海から引き寄せ、この現実に定着させた。
キイチも、ネモも、そして目の前のコウも。彼らは私の「想像」が現実を上書きして作り出した、実体を持つ解釈そのものなのだ。
「だから、佐藤くんが何を言おうと関係ないんだ。君が『ここは晴れている』と思えば、雨なんて一滴も降っていない。君が『私は幸せだ』と解釈すれば、大学に行かないことも、孤独な将来への不安も、すべては無意味になる」
「……でも、それじゃ、私は嘘の中で生きてることにならない?」
「嘘? 違うよ。君が見ているものこそが、君にとっての唯一の『真実』になるんだ。……それを『狂気』と呼ぶか『救済』と呼ぶかは、解釈次第だけどね」
コウは私の耳元で低く笑った。
彼の指が、私のブラウスのボタンをゆっくりと解いていく。
「陽菜ちゃん。外の世界なんて、もう見なくていい。……佐藤くんが見ている、あの泥だらけで、冷たくて、思い通りにいかない世界に、何の意味があるの?」
彼の唇が、私の鎖骨をなぞる。
ネモがつけたあの鋭い痕跡が、コウの舌によって「優しく、まどろむような快感」へと書き換えられていく。
「……あ、ん……」
「そう、そうだよ。君が求めているのは、この甘さでしょ? 僕という解釈を、君の現実のすべてにしてよ」
視界が白く霞んでいく。
コウの背後に見える窓の外は、相変わらず抜けるような青空だった。けれど、窓ガラスの隅に、一筋の「雫」が流れるのが見えたような気がした。
(……雨? いや、違う。これは私の涙? それとも……)
自分の感覚さえも信じられなくなる。
もし、この心地よい部屋も、コウの温もりも、私の「孤独」が耐えきれずに生み出した解釈の結果だとしたら。私は、自分自身の脳が作り出した檻の中に、自ら鍵をかけて閉じこもっていることになる。
「……コウ、私を、もっと麻痺させて」
「いいよ。いくらでも、君が望む通りに」
コウは私を深く抱きしめ、その唇で私の思考を塞いだ。
彼の口内からは、完熟した蜜柑の、どろりとした蜜の味がした。
脳が、熱を持って溶けていく。
「現実」という影の世界が遠ざかり、コウが作り上げる「光の世界」が私を侵食していく。
大学の課題も、佐藤くんの心配そうな顔も、ネモの厳しい規律も。すべてが溶けて、オレンジ色のシロップの中に沈んでいった。
深夜。
嵐の音が止まないはずの夜。
私はコウの腕の中で、雲一つない満月の夢を見ていた。
キッチンのカウンターに置かれた新しい瓶。
その表面に、私の意思に呼応するように、パキッ、と微かな「解釈の歪み」が刻まれた。




