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シロップ男子。~賞味期限付きの愛~  作者: ぐうすけ


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【第十話】継承される渇望

 ネモが消えてから、三日が過ぎた。

 私は、死体のようにベッドに横たわっていた。大学の講義はすべて欠席している。ネモが「効率的だ」と褒めてくれたスケジュール帳は、机の上で埃を被り始めていた。


 喉が渇く。

 けれど、ただの水を飲んでも、この胸の奥にある「乾き」は癒えない。

 私の体は、あの暴力的なまでの甘さと、身を焼くような酸味を知ってしまった。今さら普通の、味のない日常に戻れるはずがなかった。


「……お父さん」


 私は重い体を起こし、部屋の隅に置かれた段ボールを探った。

 引越しの際、父が「困った時に読みなさい」と言って渡してきた、古い革表紙のノート。当時は時代錯誤な日記帳だと思って放置していたが、今の私には、これが蜘蛛の糸だった。


 ページをめくると、父の独特な、少し神経質そうな筆跡が並んでいた。


『我が一族に伝わる儀式は、形に囚われるものではない。

 世間はそれを果実酒やシロップと呼ぶが、本質はそこにはない。

 我らが血は、必要とした時に、万物に宿る(ことわり)を借りる器となる。

 それがどのような形で現れるかは、器となる者の「渇望」の深さ次第だ』


 ノートの言葉は、酷く曖昧で、象徴的だった。

 父が詳細を語らなかった理由が、ようやく分かった気がした。

 現れる「形」は、人によって違うのだ。父にとっては別の何かだったのかもしれない。けれど、今の私にとっては――。


「儀式……一族……私自身が、器……?」


 もし、あの瓶が単なる「きっかけ」に過ぎなかったとしたら。

 私の中に流れる血が、果実の(なにか)を呼び寄せる「力」を持っているのだとしたら。


 私は立ち上がり、ふらつく足取りで家を出た。

 向かったのは、近所の雑貨屋だ。

 どこにでもある、安っぽい、量産型のガラス瓶を買う。魔法の装飾も、父の署名もない、ただの1000円もしない瓶。


 次にスーパーへ行き、一番目立つ場所に置かれていた果実を手に取った。

 

 ――蜜柑(みかん)


 冬の名残ではなく、初夏の太陽を浴びて育てられた、早生の温州みかん。

 そのオレンジ色の皮は、キイチの赤よりも優しく、ネモの黄色よりも温かかった。


 帰宅し、私は震える手で新しい瓶を洗った。

 まな板の上に、蜜柑を並べる。

 包丁を入れようとして、ふと思い立ち、私はネモの時にやったように丁寧に皮を剥くのをやめた。

 指先を使って、無造作に、蜜柑の皮を剥いていく。

 

 プシュッ、と皮から油分が弾け、懐かしくて甘い、太陽の香りが立ち上る。

 白い筋なんて気にしない。一房ずつに分け、そのまま瓶の中に放り込んでいく。

 氷砂糖を層にし、最後に自分の指先に残った蜜柑の汁を、瓶の縁に塗りつけた。


(もし、本当に私の「渇望」が魔法なのだとしたら)


「……来て。誰でもいい、私を独りにしないで」


 それは祈りというより、呪いに近い言葉だった。

 

 その夜、私は瓶をキッチンカウンターに置き、床に座り込んで眠りについた。

 もう、ベッドで一人きりの空虚に耐える気力はなかった。

 

 真夜中。

 パキ、という微かな音がした。

 

 割れた瓶の音ではない。

 氷砂糖が溶け、蜜柑の果汁と混ざり合う、甘く、平和な音。

 

「……あーあ、そんなところで寝たら、風邪引いちゃうよ?」


 耳元で、日向ぼっこをしている時のように、のどかで温かい声が聞こえた。

 

 驚いて目を開けると、そこには、一人の青年が座り込んで私を覗き込んでいた。

 オレンジ色の少し癖のある髪に、優しげに垂れた目尻。

 彼はオーバーサイズのパーカーに身を包み、膝を抱えて丸くなっていた。


「……あなたは……」

「コウ。蜜柑のコウだよ。よろしくね、ご主人様」


 コウはくしゃりと顔を崩して笑うと、私の冷え切った手を、自分の両手で包み込んだ。

 

 暖かい。

 キイチの熱情でも、ネモの覚醒させるような冷たさでもない。

 こたつの中で丸まっている時のような、全肯定の安らぎ。


「え、待って……。瓶、普通のなのに……。なんで……?」

「瓶? ああ、あんなの、ただの『待ち合わせ場所』だよ。俺たちを呼んだのは、その瓶じゃなくて、君でしょ?」


 コウは当然のように言って、私の手の甲に自分の頬を擦り寄せた。

 

「君が俺の『甘さ』を欲しがったから、俺はここに来たんだよ。陽菜ちゃん」


 その瞬間、私は理解した。

 父が言っていた「力」の正体を。

 私は、自分の孤独を使って、異形のものたちを呼び出す「魔女」の末裔だったのだ。

 

 そして、コウの瞳の奥に、蜂蜜のような、どろりと濁った深い愛着が見えた。

 優しそうな外見とは裏腹に、彼は「逃がさない」と無言で告げていた。



***



 翌朝、私を包んでいたのは、これまでにないほど柔らかで穏やかな体温だった。

 ネモがいた頃のような、心臓を叩き起こされるアラームの音はない。ただ、カーテン越しに届く柔らかな陽光と、耳元で聞こえる規則正しく、のどかな寝息。


「……ん」

「あ、起きた? おはよう、陽菜ちゃん」


 視線を上げると、至近距離にコウの顔があった。

 彼は私の腰を抱き寄せたまま、ふにゃりと、まるで春の陽だまりのような笑みを浮かべる。


「よく眠れた? 昨日まで、すっごく疲れた顔してたから心配だったんだよ。ね、もうちょっとこうしてよう?」


 コウは私の首筋に顔を埋め、すりすりと頬を寄せてくる。

 キイチのような強引さも、ネモのような冷たさもない。ただ、大型犬が甘えているような、無邪気で温かな接触。けれど、その温もりは一度触れると離れがたくなるほど、私の意志を奪っていく。


「……あ、大学。行かなきゃ。ネモに、スケジュール守れって……」

「ネモ? ああ、前の人のこと?」


 コウは顔を上げると、少しだけ眉を下げて困ったように笑った。

 

「いいんだよ、そんなの。もういない人の言うことなんて、聞かなくていいじゃん。頑張りすぎだよ、陽菜ちゃんは。今日はさ、大学もお休みして、僕と一緒にダラダラしよう? 外、暑そうだし」


 ――お休みして。

 その言葉が、今の私には甘い蜜のように響いた。

 一ヶ月間の孤独と、その後のネモによる過酷なまでの管理。私の精神は、すでにボロボロだったのだ。そこに現れた「全肯定」の化身。


「……いいのかな」

「いいよ。僕が『いい』って言ってるんだもん。お腹空いたでしょ? 何か作ってあげる。……あ、動かなくていいよ。君はそこで見ててくれる? 僕のお姫様!」


 コウは私の額にちゅ、と子供にするような軽いキスを落とすと、ベッドを抜け出してキッチンへと向かった。

 彼は料理というよりは「おやつ」に近い、甘いフレンチトーストを作って戻ってきた。

 メイプルシロップがたっぷりかかり、その上には彼自身の果実である蜜柑が、宝石のように散りばめられている。


「はい、あーんして」

「……恥ずかしいよ、自分でする」

「えー、駄目? 僕がしてあげたいの。……ね?」


 首を傾げ、甘えるような視線を向けてくるコウ。

 私は抗いきれず、彼に差し出されたスプーンを口に含んだ。

 

 とろけるような甘さと、蜜柑の爽やかな風味が口いっぱいに広がる。

 ネモが「効率」のために排除した甘みが、今は砂漠に降る雨のように、私の乾いた心に染み渡っていく。

 

「おいしい……」

「でしょ? 幸せなことだけ考えてればいいんだよ。難しいことは、全部僕が溶かしてあげるから」


 コウは食べ終えた私の指先を、一本ずつ丁寧に舐めとった。

 その仕草は酷く扇情(せんじょう)的で、けれど彼の表情はどこまでも無垢だ。そのギャップが、私の理性の脆いところをじりじりと焼いていく。


 結局、私はその日一日、一歩も外に出なかった。

 ソファーの上でコウに抱かれながら、とりとめもないバラエティ番組を眺め、彼が剥いてくれる蜜柑を口に運ぶ。

 

 夕方になり、部屋がオレンジ色の光に染まる頃、私はふと、キッチンにある「新しい瓶」に目をやった。

 父の言っていた、私の血筋。

 安物の瓶は、今、コウの存在を内包して、内側から眩いばかりの黄金色の光を放っている。

 

「……ねえ、コウ。お父さんのノートにね、『渇望の深さ次第』って書いてあったの。……私があなたを呼んだのは、私が……ダメな人間になりたかったからなのかな」


 私の問いに、コウは私の背中を優しく撫でながら、耳元で囁いた。


「『ダメな人間』なんて、誰が決めるの? 僕は今の陽菜ちゃんが一番好きだよ。何にもできなくて、僕がいないと生きていけなくて……そんな君が、一番可愛い」


 その瞬間、彼の腕の力が強まった。

 パーカーの袖から覗く彼の腕には、意外なほど男らしい筋が浮いている。

 

「……陽菜ちゃん。君の中にある『力』、もっと僕に使ってよ。……もっと、僕のこと欲しがって。そうすれば、僕はもっと甘くなって、君をずっと離さないであげられるから」


 コウは私をソファーに押し倒すと、私の首元に深く顔を埋めた。

 彼の匂いは、日差しをたっぷり浴びた蜜柑そのものだ。

 キイチのような「刺すような熱」でも、ネモのような「凍える痛み」でもない。

 ただ、ぬるま湯の中に沈んでいくような、逃げ場のない心地よさ。


「ん……コウ……」

「いいよ、そのまま……。全部忘れて、僕に溺れて……」


 彼の手が私のシャツの中に忍び込み、素肌を愛撫する。

 その感触はどこまでもソフトで、けれど、一度捕らえられたら二度と抜け出せないクモの巣のように、私の自由を奪っていく。

 

 私は気づいてしまった。

 キイチは私の「身体」を、ネモは私の「理性」を求めた。

 けれど、このコウという男は、私の「魂の芯」を、自堕落という名の綿菓子で包み込み、窒息させようとしているのだ。

 

 窓の外では、夜の帳が降りようとしていた。

 私は、自分が自分の力で呼び出した「三番目の毒」を、自ら進んで飲み干していた。

 

 瓶の底を、オレンジ色のシロップが満たしていく。

 その重みが、私の未来を少しずつ、確実に、甘い泥沼へと引きずり込んでいった。

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