【第一話】静寂に溶ける
カッターの刃が段ボールを裂く、乾いた音だけが室内に響く。四月の夕暮れ。窓から差し込む斜光は、埃が舞う六畳一間のワンルームをオレンジ色に染めていた。
「……よし。これで最後」
最後の箱を開け、中身を床に並べ終えたところで、私はふうと長い溜息を吐いた。今日から、ここが私の「城」になる。大学の入学式から一週間。サークル勧誘の喧騒、名前も知らない同級生たちとの、上辺だけの愛想笑い。グループの端っこで、誰かが喋るのをただ頷いて聞いているだけの時間。「新生活」という言葉の輝きに反比例するように、私の内側には、しんしんと冷たい空洞が広がっていた。
――私がいなくても、世界は回る。
――大学の講義室に私の席があってもなくても、きっと誰も気づかない。
そんな、言葉にすればあまりに陳腐で、けれど心臓を確実に冷やす虚無感から逃げるように、私はキッチンへと足を向けた。
流し台の隅に置かれた、ひときわ大きな荷物がある。実家を出る際、父が「一人暮らしのお祝いだ」と言って持たせてくれたものだ。
「これ、本当に持っていくの?」
「ああ。どうしても苦しくなったら、これでシロップを作るといい。お前の暮らしが、少しでも楽しくなるように」
父の言葉を思い出しながら、緩衝材を剥がす。現れたのは、ずっしりと重厚な、古いガラス瓶だった。アンティークショップで手に入れたのか、それともどこかの家系に伝わっていたものか。気泡の混じった厚いガラスは、光を吸い込んで鈍く輝いている。どこか、生き物の呼吸を封じ込めているような、不思議な圧迫感があった。
「……シロップ。そんなの作る時間、あるかな」
独り言が、がらんとした壁に跳ね返って消える。返事がないことは分かっている。分かっているけれど、耐えられなかった。私は逃げるように、近所のスーパーで買っておいた苺のパックを手に取った。 それから、一袋の氷砂糖。
シロップ作り。それは、ただ果実と砂糖を漬け込むだけの、ひどく単純で、静かな儀式だ。
まずは、苺を丁寧に洗う。冷たい水の中で、鮮やかな赤色が踊る。ヘタを一つずつ取り除き、清潔な布で水分を拭き取る。指先に残る、甘酸っぱい春の香り。次に、大きな瓶を熱湯で消毒し、底に苺を敷き詰める。その上から、透明な氷砂糖をさらさらと振りかける。
苺、氷砂糖。苺、氷砂糖。
赤い果実と、氷の礫が、交互に層を作っていく。氷砂糖がガラスに当たる「チリン」という涼やかな音が、部屋の静寂を少しずつ塗り替えていくような気がした。
瓶の半分ほどまで埋まったところで、私は手を止めた。父が言っていた「高糖度」の比率。もっと、もっと甘く。現実の味気なさをすべて忘れさせてしまうくらい、過剰なほどの甘さを。
私は残りの氷砂糖をすべて瓶に流し込んだ。白い結晶が苺を埋め尽くし、真っ赤な果実が、まるで雪の中に閉じ込められた熱のように見える。
「……できた」
蓋を閉めると、カチリと重い音がした。キッチンカウンターの隅に置かれた瓶は、夕闇の中でどこか異様な存在感を放っている。果実が溶け、砂糖が溶け、シロップへと変わるまで、どれくらいの時間がかかるのだろう。
その日は、引越しの疲れもあって、私はシャワーを浴びるとすぐにベッドに潜り込んだ。枕元から漂う、微かな、けれど確かな苺の香り。それは昼間嗅いだものよりも、ずっと濃厚で、どこか……体温を含んでいるような、生々しい香りだった。
「おやすみなさい」
誰にともなく告げて、目を閉じる。深い眠りに落ちる直前、カチリ、と。キッチンのほうで、瓶の蓋が開くような音が聞こえた気がした。
……けれど、私はそれを夢の始まりだと思い、そのまま意識を手放した。
ふわり、と。 鼻腔をくすぐる濃厚な香りに、私は意識を浮上させた。スーパーで買った苺の瑞々しい匂いではない。それはもっと、熱を帯びて煮詰められたような、とろけるほどに甘い、暴力的なまでの芳香。
(……甘い。息が、苦しい……)
まどろみの中で寝返りを打とうとして、体が動かないことに気づく。胸の上に、ずっしりとした重みがある。まるで誰かに組み敷かれているような圧迫感。驚いて目を開けると、そこには「ありえない」光景が広がっていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされて、一人の男が私を見下ろしていた。燃えるような赤髪。少しだけ斜に構えた、挑戦的な瞳。彼は私のベッドの上に膝をつき、両手で私の肩を組み伏せるようにして、至近距離で顔を覗き込んでいたのだ。
「……あ」
声が出なかった。恐怖よりも先に、あまりの美しさと、室内に充満する熱い香りに脳が痺れる。
「やっと起きた」
男が唇を歪めて笑う。低くて、少し掠れた声。その振動が、重ねられた肌を通じて私の心臓にまで届く。
「な、……だ、れ……っ?」
「誰って。君が呼んだんだろ、俺のこと」
男は片手を離すと、私の頬を指先でなぞった。熱い。人間の体温だ。けれど、その指先が触れた場所から、砂糖が溶け出すような甘い感覚が全身に回っていく。
「そんなにたっぷり、氷砂糖をぶち込んでさ。おかげで俺、喉が焼けるほど甘くなっちまったよ」
氷砂糖。その単語に、私は昨夜のキッチンカウンターを思い出す。慌てて視線を向けると、そこにあるはずの大きな瓶の蓋が開いていて、中身は空っぽになっていた。
「嘘……、そんな、まさか」
「嘘じゃない。俺はキイチ。君が作った苺シロップの精……なんて可愛いもんじゃないな。俺は、君の寂しさが形になったものだ」
キイチと名乗った男は、そのままズルリと体を滑らせ、私の耳元に顔を寄せた。吐息が熱い。そこからも、濃密な苺の香りがする。
「……ねえ、君。名前は?」
「……ひ、陽菜」
「陽菜。いい名前だ」
彼は私の名前を愛おしそうに呟くと、首筋に鼻先を押し当て、深く息を吸い込んだ。
「いい匂いだ。俺をあんなに甘くしてくれた主の匂い……。なあ、陽菜。俺、消えるまでの一週間、君のこと離さないから」
一週間。父が言っていた言葉が脳裏をよぎる。シロップが食べ頃になるまでの、短い夢。けれど、目の前の男の体温は、あまりに生々しく、「現実」を主張していた。
キイチの手が、私のパジャマの裾から素肌に滑り込む。指先が触れるたび、思考が甘い泥の中に沈んでいくようだ。助けて、と叫ぶべきなのに、言葉が出てこない。それどころか、この一週間、誰もいないはずだったこの部屋に「彼」がいることに、どうしようもない安らぎを感じてしまっている自分がいた。
「……だめ、そんな……っ」
「だめじゃないよ。君は俺を求めてた。独りは嫌だって、昨日泣きそうな顔で瓶に砂糖を詰めてた。だろ?」
図星だった。見透かしたような彼の瞳が、私の内側の空洞を埋めていく。キイチは私の唇に自分の親指を押し当てると、独占欲を隠そうともしない笑みを浮かべた。
「たっぷり愛してあげる。君が、俺の味以外、何も欲しくなくなるまで」
窓の外では、何も知らない世界がいつも通り動き始めていた。けれど、この六畳一間の静寂は、真っ赤なシロップの色に染まり、溶け始めていた。
これが、私と彼らとの、甘くて切ない一年の始まり。まだ誰もいない、二人きりの朝に、最初の嘘が溶けていった。
「シロップ男子。」スタートです。
どうぞよろしくお願いいたします。




