逃げ場を失った日、学校が地獄になった
月曜日の朝。
校門をくぐった瞬間、僕は後悔した。
「あっ……」
「本物だ……」
「動画の……」
ざわざわと、周囲がざわめく。
生徒たちの視線が、一斉に僕に向けられる。
『最悪だ……』
廊下を歩けば、ひそひそ話。
教室に入れば、シーンと静まり返る。
そして、授業中――
「佐藤、ちょっといいか」
担任の田所先生に呼ばれた。
『来た……』
職員室に連れて行かれ、生徒指導の鬼塚先生と、教頭先生が待っていた。
『あれ?教頭先生ってこんな感じだったかな?』
「佐藤くん、金曜日の夕方、駅前で何があったか説明してもらえるか」
教頭先生が、タブレットを僕に見せた。
画面には、あの動画が再生されている。
再生回数、32万回。
『3日で32万……』
「これ、君だよね?」
「……はい」
「暴れている男性を、どうやって制圧したんだ?」
「……腕を掴んだら、勝手に落ち着いただけです」
「勝手に?」
鬼塚先生が疑わしそうな目で僕を見る。
「君、最近学校でも噂になってるな。『病気を治せる』とか」
「それは誤解です」
「誤解?」
「偶然です。全部、偶然が重なっただけで……」
教頭先生は溜息をついた。
「佐藤くん、もし君が本当に特別な能力を持っているなら、正直に話してほしい。隠す必要はない」
「……持っていません」
「そうか」
教頭先生は僕の顔をじっと見つめた。
「なら、これ以上騒ぎを大きくしないように。変な噂が広まると、学校の評判にも関わる」
「……はい」
「いいね? 目立つ行動は控えること」
『それ、僕が一番望んでることなんですけど……』
職員室を出ると、廊下に人だかりができていた。
「佐藤くんだ!」
「本物!」
「お願い、私のお母さんが……」
「弟が……」
「祖父が……」
一斉に、生徒たちが僕に群がってくる。
『逃げなきゃ……!』
僕は人混みをかき分けて、走り出した。
階段を駆け上がり、屋上へ。
しかし、屋上の扉は施錠されていた。
『くそ……!』
背後から、足音が近づいてくる。
「待って!」
「佐藤くん!」
僕は別の階段を使って、今度は1階へ。
昇降口を抜けて、校庭に飛び出した。
『とりあえず、人がいない場所……』
校庭の片隅、体育倉庫の裏側。
ここなら、誰も来ない。
僕は倉庫の壁に背中を預けて、座り込んだ。
「はあ……はあ……」
息が切れる。
『なんだよ、これ……』
スマホを取り出すと、着信履歴が20件以上。
すべて知らない番号だ。
LINEも、見知らぬアカウントからのメッセージで埋め尽くされている。
「助けてください」
「お願いします」
「家族が病気で」
『もう……無理だ』
スマホの電源を切った。
『異世界に戻りたい……いや、あっちでも同じか』
視線を落とすと、足元に踏みにじられた花があった。
パンジーだろうか。誰かに踏まれて、茎が折れ、花びらが散っている。
『可哀想に……』
僕は、そっと花に触れた。
『……ちょっとだけなら』
誰も見ていない。
今なら、誰にもバレない。
『スキャン開始』
植物のDNA配列が、頭の中に流れ込んでくる。
パンジー(Viola × wittrockiana)。第1染色体から第12染色体まで、すべての遺伝情報。
『茎の維管束が完全に断裂。木部と師部の連続性が失われている。細胞壁も損傷……通常なら、もう再生不可能だ』
でも。
『まず、損傷部位の細胞分裂を促進。オーキシンとサイトカイニンの濃度勾配を調整して、カルス形成を誘導』
『次に、維管束の再形成。木部柔細胞からの脱分化を促して、維管束形成層を再構築……』
『ペクチンとセルロースの合成経路を活性化。第9染色体のCESA遺伝子(セルロース合成酵素)の発現を上方制御……』
『師部の篩管と木部の道管を再接続。水分とグルコースの輸送経路を復活させる……』
1.2秒。
折れた茎が、ゆっくりと立ち上がった。
散らばっていた花びらが、元の位置に戻っていく。
いや、正確には「戻る」のではない。
損傷した細胞を修復し、失われた組織を再生し、まるで時間を巻き戻したかのように――
「……綺麗だな」
元通りの、紫色のパンジーが、そこに咲いていた。
『せめて、君だけでも……』
僕は、その花を見つめた。
『人間は複雑すぎる。助けたら、感謝される。でも、助けないと、責められる』
『でも、花は何も言わない。ただ、そこに咲いているだけ』
『……楽だな』
そう思った瞬間――
「すごい……」
背後から、声がした。
『え!?』
振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。
眼鏡をかけた、文学少女風の女の子。確か、隣のクラスの……
「今の、見てたの……?」
「うん」
彼女は僕を見つめていた。その目には、驚きと――何か別の感情が混ざっている。
「やっぱり、あなただったんだ」
「……」
「動画、見たよ。駅前の。それに、学校の噂も全部聞いた」
彼女は一歩近づいてきた。
「あなた、本当に――人を治せるんだね」
「……違う」
「嘘。今、花を治したでしょ。私、最初から最後まで見てた」
『完全に……見られてた』
「ねえ、どうやってるの? 魔法? 超能力?」
「……そういうんじゃない」
「じゃあ、なに?」
僕は答えられなかった。
説明したところで、信じてもらえるわけがない。
「DNA操作」なんて言ったら、頭がおかしいと思われるだけだ。
「……言えない」
「そっか」
彼女は少し残念そうに笑った。
「でも、いいよ。秘密にしてあげる」
「……本当に?」
「うん。その代わり――」
彼女はスマホを取り出した。
「連絡先、交換しよ」
「え……」
「だって、あなたのこと、もっと知りたいから」
『なんだ、この展開……』
しかし、断る理由もない。
僕たちは連絡先を交換した。
「私、倉田春菜。よろしくね、佐藤くん」
「……よろしく」
「じゃあ、また明日」
倉田さんは、軽く手を振って去っていった。
僕は、再び座り込んだ。
『……もう、どうにでもなれ』
空を見上げると、夕焼けが始まっていた。
もうすぐ下校時刻だ。
『明日からどうしよう……』
学校に来れば、人に囲まれる。
逃げても、追いかけられる。
スマホの電源を入れれば、無数のメッセージ。
『もう……逃げ場がない』
げんなりとしながら、僕は立ち上がった。
そろそろ教室に戻らないと。
体育倉庫の裏から出ようとした、その時――
「あれ……?」
校門の方向が、やけに騒がしい。
『なんだ……?』
嫌な予感がした。
校庭を横切って、校舎の角から様子を窺うと――
黒い車が、5台。
校門の前に停まっている。
そして、車から降りてきたのは――
『黒覆面……?』
顔全体を黒い布で覆った、十数名の集団。
彼らは、何も言わず、校内に侵入してきた。
「え、なに……? 誰あれ……?」
生徒たちが困惑している。
その時――
校舎の中から、叫び声が聞こえた。
「ウアアアアアアッ!」
『この声……!』
金曜日、駅前で聞いた、あの叫び声だ。
「キャアアアアアッ!」
「タスケテエエエエッ!」
女子の悲鳴。
次々と、校舎の中から生徒が飛び出してくる。
そして――
「コロス……コロス……コロス……」
「タスケテ……タスケテ……ダレカ……」
「アイツガクル……アイツガ……」
目を見開き、よだれを垂らし、痙攣しながら――
暴れる生徒たち。
10人、20人、30人……
次々と、生徒が異常な状態になっていく。
「なに……なにこれ!?」
「逃げて!」
校庭がパニックになる。
暴れる生徒たちが、他の生徒に襲いかかる。
「やめて!」
「助けて!」
阿鼻叫喚。
そして、黒覆面の集団は――
ただ、静かに、その様子を見ている。
『これ……まさか』
僕の脳裏に、最悪の可能性が浮かんだ。
『金曜日の、あの男と同じ……薬物? まさか、学校中に……?』
校舎から、さらに生徒が飛び出してくる。
教師たちも、必死に止めようとしているが――
「うわあああっ!」
一人の教師が、暴れる生徒に突き飛ばされた。
『まずい……このままじゃ……』
しかし。
『でも、僕が出ていったら……』
数十人。
一人ずつ触れて、治療していたら、時間がかかりすぎる。
そして、完全に正体がバレる。
『どうする……どうすればいい……』
僕は、校舎の影で立ち尽くしていた。
そして――
黒覆面の集団の一人が、ゆっくりとこちらを向いた。
その人物は、僕を指差した。
まるで――
「お前を待っていた」
と言っているかのように。
『……え?』
背筋に、冷たいものが走った。
これは――
偶然じゃない。
『僕を……狙ってる?』
校庭は、完全に地獄と化していた。
生徒たちの叫び声。
教師たちの怒号。
黒覆面の不気味な沈黙。
そして――
僕を見つめる、あの視線。
『……逃げられない』
これは、もう。
僕の「ひっそり暮らす」という願いが、完全に崩壊する瞬間だった。