暴れる男を止めたら、動画が拡散された
金曜日の放課後。
僕は友人の山田に誘われて、駅前の繁華街を歩いていた。
「なあ佐藤、最近なんか暗くね?」
「え、そう?」
「そうだよ。昼休みもずっと寝たふりしてるし、話しかけても『うん』『ああ』しか言わないし」
『それは……目立たないようにしてるからだけど』
「ちょっとリフレッシュしようぜ。ゲーセンでも行こう」
山田は能天気な笑顔で僕の肩を叩いた。
『まあ、たまにはいいか。ずっと気を張ってて疲れたし』
繁華街は金曜の夕方とあって、人通りが多い。学生、サラリーマン、買い物客で賑わっている。
「あ、あそこのクレープ屋、新しくできたらしいぞ」
「へえ……」
僕たちがクレープ屋の前を通りかかった、その時だった。
「ウアアアアアアアッ!」
突然、奇声が響いた。
「なんだ!?」
振り返ると、50メートルほど先で、一人の男が暴れていた。
30代くらいだろうか。スーツ姿だが、シャツは汚れ、ネクタイは緩んでいる。
「タスケテ……タスケテ……ダレカ……」
男は何かに怯えたように、周囲の人々に手を伸ばしている。
「コロサレル……コロサレル……アイツガ……アイツガクル……」
「うわ、やばいやつじゃん。行こうぜ佐藤」
山田が僕の腕を引っ張ったが、僕は動けなかった。
『あの男、様子がおかしい』
男の動きが、人間のそれではない。
痙攣するような不規則な動き。瞳孔が開ききっている。大量の発汗。
『薬物……? いや、違う。あれは……』
男が突然、近くにいた女性に飛びかかった。
「キャアッ!」
女性が悲鳴を上げる。周囲の人々が逃げ始める。
「誰か! 警察を!」
「110番!」
パニックになる群衆。
男は女性を押し倒し、首を絞めようとしている。
『まずい……!』
僕の体が、勝手に動いた。
「佐藤!?」
山田の声を背に、僕は走り出した。
人混みをかき分け、男に近づく。
「コロス……コロサナキャ……アイツガクルマエニ……」
男は完全に錯乱している。女性の首に手をかけたまま、力を込めている。
女性の顔が紫色に変わり始めている。
『間に合え……!』
僕は男の腕を掴んだ。
その瞬間――
『スキャン開始』
男の体内の情報が、一気に流れ込んでくる。
『これは……合成カンナビノイド!?』
脳内のカンナビノイド受容体CB1が過剰に活性化している。前頭葉の機能が著しく低下。扁桃体が暴走状態。さらに――
『メタンフェタミンの代謝物も検出。ドーパミンとノルアドレナリンの異常な放出……複数の薬物の複合作用だ』
通常の医療では、この状態から回復させるのに数時間、いや数日かかる。
でも、僕なら――
『第11染色体のDRD2遺伝子(ドーパミン受容体)の発現を一時的に抑制。第6染色体のCNR1遺伝子(カンナビノイド受容体)のシグナル伝達を遮断』
『さらに、前頭前野のGABA受容体を活性化。セロトニン系を正常化……』
0.8秒。
「ウ……ア……」
男の体から、急速に力が抜けていく。
瞳孔が正常なサイズに戻る。発汗が止まる。筋肉の痙攣が収まる。
そして――
「……え?」
男は、自分が何をしていたのか分からないという表情で、女性を見下ろした。
「な、なにを……俺は……」
完全に正気に戻っている。
女性は咳き込みながら、男の手から逃れた。
「助けて……」
「す、すみません……俺、一体……」
男は自分の手を見て、震え始めた。
『よし、成功だ。今のうちに――』
僕は人混みに紛れて、その場から立ち去ろうとした。
しかし。
「ちょっと待って!」
背後から声がかけられた。
振り返ると、20代くらいの女性が、スマホを僕に向けていた。
「今の、撮影してたんだけど……あなた、あの男の人になにしたの?」
『は?』
「触った瞬間、急に大人しくなったよね? 薬でも打ったの?」
「いえ、なにも……」
「嘘。絶対なにかした。ねえ、あなた警察の人? それとも医者?」
『まずい……』
周囲の人々も、僕に注目し始めている。
「あの人が助けてくれたの?」
「すごい……一瞬で取り押さえた」
「でも、どうやって?」
人が集まり始める。
『これは……本気でまずい』
「山田!」
僕は友人の名を叫んだ。
「え、あ、はい!」
山田が駆け寄ってくる。
「帰るぞ!」
「え、でも……」
「いいから!」
僕は山田の腕を掴んで、人混みに飛び込んだ。
「待って! 名前だけでも!」
女性の声が背後から聞こえたが、無視した。
路地裏に入り、さらに走る。
曲がり角を何度も曲がり、ようやく人気のない場所に辿り着いた。
「はあ……はあ……」
息を切らしながら、僕は壁に寄りかかった。
「お、おい佐藤……なんだったんだよ、今の」
山田も息を切らしている。
「お前、あの男になにしたんだ? 触っただけで大人しくなって……」
「……なにもしてない」
「嘘つけ。絶対なんかしただろ」
『参った……山田にまで疑われてる』
「本当に、なにもしてないんだ。多分、あの男が勝手に落ち着いただけで……」
「でも、タイミングが……」
山田は疑わしそうな目で僕を見ていた。
「……なあ佐藤。お前、学校で噂になってるだろ。『病気を治せる』って」
『やっぱり、知ってたのか』
「あれって、マジなの?」
「……違う。全部、偶然だ」
「偶然にしては、多すぎないか?」
山田の声は、いつもの能天気なトーンではなく、真剣だった。
「田中さんの花粉症、田中さんの弟、そして今日の……」
「山田」
僕は彼の目を見た。
「頼む。今日のこと、誰にも言わないでくれ」
「……なんで?」
「目立ちたくないんだ。ただ、普通に生きたいだけなんだ」
山田は少し考えてから、ため息をついた。
「……分かった。言わないよ」
「ありがとう」
「でもさ」
彼は僕の肩に手を置いた。
「もしお前に本当に人を助ける力があるなら、隠すのは勿体なくないか?」
「……そんな力、ない」
「……そっか」
山田はそれ以上何も言わなかった。
僕たちは、それぞれ別の方向に帰った。
その夜。
僕は自室のベッドに横になっていた。
『今日は……やりすぎた』
人前で、あんなに派手に能力を使ってしまった。
しかも、撮影されていた。
『まずい……本当にまずい』
スマホを手に取り、SNSを開いてみる。
Twitterで「駅前 暴れる男」と検索すると――
すでに複数の投稿が上がっていた。
「駅前で男が暴れてて怖かった」
「誰か助けてくれて良かった」
「警察来る前に終わってた」
そして――
「【衝撃映像】暴れる男を一瞬で制圧した謎の高校生」
動画付きの投稿。
再生回数、すでに5000回。
『うそだろ……』
動画を再生すると、そこには――
暴れる男に近づく僕。
腕を掴む僕。
そして、男が急に大人しくなる瞬間。
画質はそこまで良くないが、僕の顔は十分認識できる。
コメント欄を見ると――
「これ、なにしたの?」
「マジで一瞬で大人しくなってる」
「ツボでも押したのか?」
「武術の心得がある人かな」
「顔、見覚えあるんだけど……」
『最悪だ……』
さらにスクロールすると、別の投稿。
「この高校生、私の学校の人かも」
「え、どこの学校?」
「○○高校だと思う。制服が似てる」
『完全にアウトだ……』
僕は枕に顔を埋めた。
『なんで……なんでこうなるんだ……』
ひっそり暮らすはずだった。
目立たないように生きるはずだった。
でも、結果は――
『拡散』
異世界でも、同じだった。
一度能力を使えば、必ず注目される。
そして、期待される。
「もっと助けてくれ」
「お前にしかできないことがある」
そして最後には――
「なんで助けてくれないんだ」
『……疲れた』
スマホを置いて、僕は目を閉じた。
明日、学校でどんな騒ぎになるか、想像したくもなかった。
しかし、眠れなかった。
頭の中で、今日の出来事がぐるぐると回っている。
暴れていた男。
首を絞められていた女性。
そして――
『もし僕が助けなかったら、あの女性は死んでいたかもしれない』
『でも、助けたせいで、また目立ってしまった』
どちらが正しかったのか。
僕には、分からなかった。
窓の外を見ると、三日月が浮かんでいた。
異世界でも――
『いや、もう考えるのはやめよう』
目を閉じて、無理やり眠ろうとした。
しかし、結局その夜、僕はほとんど眠れなかった。
そして翌朝――
僕のスマホには、100件以上の通知が溜まっていた。
すべて、昨夜の動画に関するものだった。
再生回数は、10万回を超えていた。
『……終わった』
僕の「ひっそり暮らす」という目標は、完全に崩れ去った。
いや、正確には――
まだ崩れてはいない。
これから、崩れていくのだ。
そして僕は、それを止めることができない。