花粉症を治したら、クラスメイトに拝まれた
春。それは希望と絶望が交差する季節だ。
新しい出会いと別れ。桜の開花と、そして――花粉の飛散。
「はっ、はっ、はっくしょん!」
教室に響き渡るくしゃみの連続攻撃。音源は僕の隣の席の田中美咲さんだ。
「うぅ……もう無理……目がかゆい、鼻水止まらない、喉も痛い……」
彼女の目は真っ赤に腫れ上がり、鼻はティッシュで擦りすぎて赤くなっている。机の上には使用済みティッシュの山。まるで小さな雪山だ。
『うわぁ、これは重症だな』
僕――佐藤健太は、隣で苦しむ田中さんを横目で見ながら思った。
花粉症。現代日本における国民病の一つ。スギやヒノキの花粉に対する過剰な免疫反応によって引き起こされるアレルギー疾患だ。
『IgE抗体が肥満細胞に結合して、ヒスタミンやロイコトリエンが放出されて……要するに免疫系の誤作動だよな』
異世界で10年間生きた記憶のおかげで、僕の頭の中には膨大な生物学的知識が詰まっている。とはいえ、異世界では「そんな地味な能力、役に立たない」と散々言われたわけだが。
「田中さん、大丈夫? 保健室行く?」
「だいじょうぶ……はっくしょん! ……じゃない」
彼女は顔を上げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で僕を見た。
「薬、飲んでるんだけど……今年は特にひどくて……」
「そっか……大変だね」
『……いや、待てよ』
僕の脳裏に、ふと考えが浮かぶ。
『花粉症って、要するにIgE抗体の産生異常と、Th2細胞の過剰反応だろ? だったら……』
ダメだ。考えるな。
『IL-4やIL-13の発現を抑制して、制御性T細胞を活性化させれば……いや、もっと根本的にHLA遺伝子の発現パターンを調整して、免疫寛容を誘導すれば……』
やめろ、僕。目立つなって決めたじゃないか。
「はっくしょん! はっくしょん!」
でも。
『……ちょっとだけなら』
田中さんが、またティッシュを取ろうとして手を伸ばした瞬間――僕は自然な動作で、彼女の手首に軽く触れた。
「あ、ティッシュ、こっちにもあるよ」
「あ、ありがと……ん?」
その瞬間。
僕の指先から、見えない力が流れ込む。
『スタート。まずは第11染色体のIL-4遺伝子座の転写調節領域を確認……エンハンサー領域の過剰活性を検出。よし、メチル化パターンを調整して発現を抑制』
触れた部分から、田中さんの細胞の情報が流れ込んでくる。DNA配列、遺伝子発現パターン、タンパク質の立体構造――すべてが手に取るように分かる。
『次にTh2細胞のIL-13遺伝子。こっちも過剰発現してるな。第5染色体の該当領域にヒストン修飾を施して……よし、発現レベル60%ダウン』
『制御性T細胞の活性化も必要だ。FOXP3転写因子の発現を上方制御……TGF-βシグナル経路を活性化して……』
『最後に、HLA-DQ遺伝子の発現パターンを微調整。アレルゲン特異的なT細胞受容体のレパトアを多様化させて、免疫寛容を誘導……』
すべての調整に要した時間、約0.3秒。
「……ん?」
田中さんが、不思議そうに首を傾げた。
「あれ……?」
彼女は鼻をすすった。いや、すすろうとして――気づいた。
「……鼻水が、止まってる?」
「え?」
「目も……かゆくない。喉の痛みも……ない?」
田中さんは信じられないという表情で、自分の顔を両手で触った。
「嘘……なにこれ……」
『あ、やば』
「さっきまであんなに辛かったのに……なんで?」
彼女は立ち上がり、教室の窓を開けた。春の風が吹き込んでくる。当然、花粉も一緒に。
「……平気。全然平気!」
田中さんは深呼吸をした。一度、二度、三度。
くしゃみは出ない。鼻水も出ない。目も痒くない。
「嘘でしょ……嘘でしょ!? なにこれ、なんで!?」
彼女は僕を振り返った。その目は、さっきまでの充血が嘘のように綺麗な白目に戻っている。
「佐藤くん! 佐藤くん、今なにした!?」
「え、いや、ティッシュ渡しただけだけど……」
「違う! 手首触ったでしょ!? あの瞬間から急に……!」
『まずい。まずいまずいまずい』
「気のせいじゃない? 薬が効いてきたとか……」
「夜に寝る前に飲んだ薬が今更効くわけないでしょ! それに、こんな急に症状が消えるなんてありえない!」
田中さんは僕の手を掴んだ。
田中さんは僕の手を握ったまま、じっと僕の顔を見つめた。
「……佐藤くん、あなた……」
『来た。この展開は異世界でも何度も経験した。次は「魔法使いなの?」的な質問が――』
「神様……?」
「は?」
予想外の単語に、僕は素っ頓狂な声を出してしまった。
「だって、説明つかないもん。20年間苦しんできた花粉症が、一瞬で治るなんて……神様の奇跡としか……」
「いやいやいや、神様じゃないから! 普通の高校生だから!」
「でも……」
その時、クラスメイトの山田が近づいてきた。
「おー、田中、どうした? さっきまで死にかけてたのに、めっちゃ元気じゃん」
「それが……急に治ったの」
「マジで? すげー効く薬でも飲んだ?」
「違うの、佐藤くんが――」
「田中さんの薬が効いてきたんだよ! よかったねー!」
僕は田中さんの言葉を遮って、強引に話をまとめた。
「そ、そうなの……?」
田中さんは不思議そうな顔のまま、しかし僕の必死の表情を見て、何かを察したようだった。
「……うん、そう。薬が効いたみたい」
『助かった……』
しかし、その日の放課後。
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。
「佐藤くん」
振り返ると、田中さんが立っていた。
「あの……さっきはありがとう。みんなの前で変なこと言ってごめんね」
「あ、いや、全然……」
「でも」
彼女は一歩近づいてきた。
「あれは絶対、佐藤くんのおかげだよね」
「なんで、そう思うの?」
「だって、家に帰って病院でもらってた薬、確認したの。使用期限、去年で切れてた」
『ああ、それ、あまり関係ない気もするけど……』
「それに、ネットで調べたんだけど、花粉症が一瞬で完治するなんて、医学的にありえないんだって」
「……そう、だろうね」
「佐藤くん、あなた……もしかして、治せる人なの?」
『どう答えよう。正直に言うべきか。いや、でも目立ちたくないし……』
僕が答えを探していると、田中さんは続けた。
「実は、私の弟も花粉症で苦しんでるの。まだ小学生なんだけど、症状がひどくて、学校も休みがちで……」
彼女の目が、少し潤んでいた。
「もし、もし可能なら……弟も、助けてもらえませんか?」
『……参ったな』
異世界でも、こういうパターンは何度もあった。
一人助けると、次々と人が集まってくる。
そして最後は、国家プロジェクト級の大騒ぎになって、僕は「役立たず」扱いされるのがオチだ。
でも。
『……小学生が苦しんでるのを放っておけるほど、冷たくはなれないな』
「……いいよ。でも、条件がある」
「条件?」
「誰にも言わないこと。絶対に、誰にも」
田中さんは何度も頷いた。
「約束する。絶対に言わない」
「それと……これは『たいしたこと』じゃないから。本当に、ちょっとしたことだから」
『免疫系の遺伝子発現パターンをいじって、制御性T細胞を活性化させて、HLA遺伝子の発現を調整しただけ。現代の科学者だって、あと10年もすれば同じことできるようになるはずだ』
「……うん。分かった」
彼女は笑顔で答えた。
しかし、僕は気づいていなかった。
その日の夜、田中さんの母親が娘の劇的な回復に驚き、近所に話してしまうこと。
そして、SNSで「花粉症が一瞬で治った」というクラスの誰かが流した投稿がバズり始めていたこと。
僕の「ひっそり暮らす」という目標は、早くも暗雲が立ち込め始めていた。