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昭和21年3月5日は南紀を感じさせる暖かい日差しで始まった。心身とも緊張で疲れ切ったのか、まぶたを開けようと思っても開けられないもどかしさの中、不意に暖かいものが顔を包み込んでいくのを感じて、やっと目を開けることが出来た。
顔に覆われているタオルでそのままゴシゴシとしてから、起き上がると俺の前に天使がいた。
「おはようございます。代表。お疲れのところ申し訳ありませんが、役場の方が至急おいでいただきたいとのことです。」
まだ頭が覚め切らない状態で少し大きくなった篠原美鈴の元気な姿と声を聞いて俺はこの時代に来れて良かったとしみじみ思った。
「分かった。すぐ用意して行く。今何時だ。」
あくびをしながら涙目で聞くと、
「9時過ぎです。南園寺様はいつも通り出ておられるとのことです。」と篠原。まだ小学校5年生くらいの年なのに随分しっかり応答するなと感心しながら、
「了解。おしぼり、ありがとう、気持ち良く目が覚めた。」と言って、篠原美鈴におしぼりを渡した後手早く着替えを済ませて、大田村役場に向かうことにした。
役場に入って五陵銀行の出張所窓口を覗いてみると、魂の擦り切れた様な顔つきをした五陵銀行の行員が座っていた。
「おはようさん。」と俺が挨拶すると、目が覚めたかのようにハッとした顔で「おはようございます。」と応じてくれた。ご苦労様です。恐らく指先は紙幣の数を数える為に使い過ぎて腫れ上がっているから、ペンを持つことも辛いかもしれんなあと同情しながら役場の俺の部屋へ急いだ。
部屋へ入ると、すでにお嬢が書類整理をしていた。
「おはよう、お嬢。疲れは大丈夫か?」
「おはようございます。大将はお疲れ様でした。あれだけ怖い人達と話しはったンですから、しょうがおまへん。今日は朝から村長はんや村のお歴々が雁首揃えて大将のこと待ってはりま。気合入れまひょか。」と相変わらずのタフネスお嬢。
早速、村長室に向かうと村の顔役が5、6人集まって相談している最中であった。
「村長、皆さん、おはようございます。今日はいい天気ですね。」と俺が挨拶しながら村長室へ入ると、
「清水代表、一体どうなってまんねん。いきなり「国家反逆罪」やなんて、GHQさん無茶言うてはるが、わしらどうしたらええンですかいの?」と村の有力者の一人が言い出すと、全員が
「全く、何ちゅうこと言うンや。」とガヤガヤし出したので、
「大丈夫です。悪い事してなかったら何の問題も起こりません。毎日を真面目に働いていればいいだけです。この物価高を何とかしようとするGHQさんの算段ですですから慌てる必要はありません。」そう俺が断言すると
「そうゆう訳やったら、今回は許したる。」と言って皆は早々に引き上げていった。
村長は「皆、清水はんの一言が聞きたかっただけや。その一言が安心できる。不思議や。」そう言って笑っているだけだったが。
まるで新興宗教の教祖になったような状況の日々が来たかのような一日だった。




