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ランセル中尉の要請を受けて、俺は政府からの支払いを受けない食堂としてどのような問題が生じるか分からないから、試験期間を設けて堺基地の食堂の一角に料理を提供するブースを開設させてもらうことにした。
支払いはドルで即金とすること。料理は天ぷら、魚やエビのフライ、ポテトチップスなど油料理をメインとした。これが大評判となり、連日ブースの開店とともに瞬く間のうちに材料が尽きてしまう状態になり、よりもっと材料の確保を求められることになった。
それによって、村においては新しい漁網を進駐軍に探しもらうことが出来て、一気に漁獲量が増加した。更に小麦やじゃがいも、油、塩、胡椒、料理酒なども米軍から日本政府へ要請することで優先的に支給されることになった。また、卵や鶏を確保するために大田村で大規模に飼育、生産することを提案し、全面的な支援を約束された。
何と言っても秘伝のから揚げのたれに付け込まれた若鳥のから揚げは、味的には80年進んだ味であり、味覚の価値破壊を起こす破壊力を秘めていた。そんなから揚げを試食した将兵の要求を誰が止められるであろうか。
やがて大田村の人が、特に寡婦や子供たちに報酬を支払って俺は鶏の繁殖、飼育をお願いすることになる流れになるのであった。
話は戻るが試用期間の始まる前に、俺はランセル中尉に対して、米軍基地内にいる日本人使用者の全てに対して検便の実施をしなければならないと話をすることにした。
昭和20年代の当時の日本人の寄生虫感染率は驚異の95%以上という資料の記憶があり、占領米軍(進駐軍と呼ばれていた)基地においても食中毒騒ぎがあったことが俺の念頭にあったからだ。
ランセル中尉には、日本の肥料は人糞が使われていて、寄生虫が繁殖している状況が長い間続いているから生野菜は食べてはいけないことと、寄生虫対策をしている人以外は料理をしてもらってはいけないことを指摘するとランセル中尉はビックリしたような顔をして直ぐに上官に話を通しておくと確約した。
このことによって俺と俺が中心になって立ち上げた村立企業である大田村食堂部は堺基地のみならず進駐軍上層部から信用という大きな財産を獲ることが出来た。