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昭和21年2月17日の朝 大田村役場は驚きに包まれていた。
それはそうなのかもしれない。この事態が既に何か月も前から予想されていて、それに対する心構えや対処をあらかじめ考える余裕があったからだ。そして、俺に対する評価もかの上杉謙信か諸葛孔明みたいな乱世を切り開く力を持った稀有の人物ではないかと呼ばれるほど上がった。のかな?
取り敢えず、今朝の目力お嬢こと南園寺香奈子嬢の鼻の穴が多少大きかったことをこっそりここに記す。
物価は一時的に大きく上がった。誰もが手元に退蔵していた旧紙幣を使おうとしたからだ。3月3日までに使い切らなくては紙くずになってしまう。一度預金したら出せなくなってしまう。日々物価が驚くほど上がっていく現状が人々を焦らさせるのだ。先を見通せない混迷の時代。
大田村は平常とあまり変わりなく日々の仕事に人々は取り組んでいた。誰もがそれぞれに役割があり、日々の仕事を真面目にこなしていれば生活していけるという自助の歯車がこの村ではきちんと作動していたからだ。
報酬とされる衣食住が満足とまでは言えないが、日々暮らしていけるだけのものが労働の対価として支給される。世の中は大不況でおまけに悪性インフレ、労働者の実質賃金は戦前の1/4か1/5まで低下していた。日本中暮らしを立てていける場所などなかった時代が始まっていた。ところがこの村だけは別世界のように生き生きと暮らしに必要なものを次々と生み出していく。そのことがそれぞれの村民の誇りであり、感動でもあった。
但し、村外のやっかみがひどかった。特に役人と呼ばれる人種は一人だけ別行動をして賞賛を浴びるものに対してはどんな手段を取っても足を引っ張ってやろうと虎視眈々と狙っているものである。
幸い和歌山県庁は沈黙を守っていたが、農家に対する米や野菜に対する強制徴収は政府からのお墨付きであり、大田村の農家に対する嫌がらせのような厳しい立ち入り調査が行われた。
それはいきなり担当役人が何人も家に乗り込んできて、警察の家宅捜査のような調査を天井から床下まで全ての家屋を調べる。
時には押収すると言ってなけなしの食糧まで持って行く場合もあり大田村役場に窮状を訴えて来る農家もあった。しかし、あらかじめこの様な行動を役所が起こすことを予想していた為、食糧の預金と言える予蓄制度を太田商事が実施していたことで危険を回避することが出来た農家が多かった。中には疑り深い人もいたのだ。けれど強制供出で残らず食糧を取り上げられてからの信頼は大層厚いものに一変したことは人情であろう。
大体裕福な名主や庄屋と言った大地主の米を隠匿している連中は商人と組んであらかじめ商人の蔵に持ち込んでしまっているため、供出の対象にはなってない。値段が上がっていくに連れて少しずつヤミで売りさばいていくだけで大儲けできるのだ。配給を牛耳っている輩と歩調を合わせて結託している。と言う事は今も昔も変わらん構造か。




