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 建物補強の研究と簡易家屋の研究も同時にさせていたが、大工技術をそれ程使わなくても済むプラモデル様式のような同一規格の家屋部品を組み合わせた機能的な狭小住宅が実験段階であったが作れるようになった。従来の大工さんに頼んでいた工期の1/8位で出来(最短5日)、価格も1/2位に抑えることが出来る優れものである。特許の申請を指示してあるが、価格が高くなっても耐震補強も予めして半額に抑えて十分に利益が出る優れものである。恐らく一人前の大工からは非難の嵐になるに違いない物件である。

もっとも、この住宅のイメージが進駐軍兵士の頭に残って、後年うさぎ小屋と呼ばれるようになるような予感がしたのは誰にも言えない話であったが。

 建材に不適な木の枝は大体炭や小さな登り窯の燃料などに利用した。とにかく無駄な材料が出ないように皆で考えて意見を出し合い、時には賞金を懸けて募集することも心掛けるようにしたところ、思わぬ活用法も出て来ることがあるので、村中の皆も楽しんで意見を言える雰囲気が出て来たのは戦後になった大きな前進の象徴と言えた。

大田村は周りの市町村に影響されず、一種の独立経済特区のような発展を遂げつつあったのだ。和歌山県庁からは年始以来何も言ってきはしなかった。

 昭和21年2月3日になって、進駐軍の堺基地から小麦が届いたとの連絡を受けた。ラスカル少尉の叔父さんに依頼していた60トンがようやく届いたようだ。これでパンを焼いていけば、かなりの食糧を市場に供給でき、物価の上昇率を少しでも抑えることができれば幸いである。

孤児の中でも虎之助より年長者が男4人ほどいたので、パン作り職人を募集したところ、食い物を喰いっぱぐれる心配のない職業とのことで全員応募してきたため、進駐軍のアメリカ人パン職人リーズンに食堂部の食事無料を条件にお願いして下働き兼パン学校生徒として年末から預かってもらっていた。一月ちょっとではまだまだ半人前だが、戦争帰還者にもパン職人がいたので早急に大田村でパンを焼けるような設備を作って、さらに差別化するための新しいパンの開発も同時に進めてもらおうかと考えている。

とにかく矢継ぎ早に事業の拡大を広げてはいるが、足元はおろそかにせず食の供給によって団結を保つ姿勢は一貫している。

 小麦は日本人にはなじみの薄い穀物であった。ほとんど強力粉はうどんぐらいしか利用できなくて、薄力粉は味もそっけもないスイトンという魚釣りの餌のようなものしか普通の家庭では作れなかった。つまり基本的料理環境が整っていない為に、不味いものしかできないという認識が小麦粉に植え付けられていたのが当時の常識であった。だから小麦の輸入には国民全体が消極的になっていったことが食糧需供のバランスがなかなか改善出来なかった理由の一つと言えるし、江戸時代からの伝統である米一辺倒の農政の一因となったのであろう。

 その認識を一変するための料理を開発していく事が、戦後の食糧事情を緩和させ、インフレを抑える為の重要なキーワードである事をこの国の為政者は何一つ想像できないボンクラしかいないと言うのが俺の率直な感想であった。

 もっとも、大変頭の良い五陵君や目力お嬢である香奈子お嬢も上流階級と呼ばれる生活環境を過ごしてきたため、これらの考えは全くの想定外であり、大層感心していたことは、エッヘン!と少し胸を張る出来事であった。


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