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アメリカ兵との会話は同時通訳風に省略させていただきました。
駐屯したラスカル少尉以下7人もこの村最初の印象が良かったため気さくに色々な相談をしてくれた。食事は村で出来るだけの材料を使い、アメリカ軍の物資も驚くほどたくさん提供してもらったために俺の趣味の料理で手を変え品を変え振舞っていたところ、ラスカル少尉が今後の駐屯地が変更になったら、絶望するかもしれないと言い出したため、休暇が取れたら食材をいっぱい持ってくればいい。美味しいものをたらふく食わせてやるからと宣言して、小隊の皆にやっと希望の光がともったのは後の話だ。結局、駐屯部隊は一か月程で堺の基地へ撤収することになって、駐屯軍の騒動は終わりになった。駐屯している間に気の良いラスカル少尉と大変仲良くなって、堺基地にいる従軍牧師に紹介してくれないかとお願いしたところ、二つ返事でOKを貰い、基地へ現状報告する時に連れて行って貰った。
そこでラスカル少尉の上官であるランセル中尉に再会したところ、「基地の食事が不味い。これでは占領地活動もストレスが溜まっていろいろな問題も起きかねない。基地の食堂の一部を貸すように申請を上げるから料理を販売して欲しい。」とお願いされることになった。
「皆と相談して、前向きに検討させてもらいます。」と応答したことが事実上の米軍堺基地大田村食堂が産声を上げた瞬間であった。
その後従軍牧師のジョンソン師をラスカル少尉に紹介されて、「大阪などの都市部が大規模な空爆にさらされて、何万人もの婦女子が亡くなったが、両親とはぐれて生き残った子供も多くいます。そういった戦災孤児を俺はなるべくたくさん保護育成できればと思っています。その協力を教会にお願いしたい。お金や物だけではなく、心が通い合った上での篤志こそが血を流しあった国民両者を融和させる一番の近道だと信じているからです。具体的なプランは後日ご相談に上がります。」と俺が神父に告げると、ジョンソン師は「ジーザス」と感嘆して、俺の手を力一杯握りしめて、「そんなに若いのに、あなたの考えていることは大司教様のように尊い考え方です。賛同できるものであれば、私も協力させていただきます。」と同意してもらえた。横で聞いていたラスカル少尉も驚きと尊敬のまなざしを向けていたことには気づかなかった。彼の中ではどうも俺を聖人認定した瞬間だったようだ。