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配送員候補は失業率33%と言われ実質的には女子を含めれば約70%近くが失業している影響もあり、男女を問わなければ人材は腐るほどおり、誠実な人間を選んで採用していく事が簡単に出来た。もちろん、能力がありそうな人材には、本部企業の各種事業に配置転換するという方針が各員のやる気を随分と刺激していたようだ。
この時代の人は、雨の日であろうが雪の日であろうが配給品を貰うために辛抱強く長時間並ぶ。食料品をはじめ生活物資が手に入る細い糸が配給であった。しかしそれだけでは生きていけない時代でもあった。
統制と配給の中で長らく生きて来た人間にとって自由に生きることは解放感と不安が同居した時代であったに違いない。何かを始める為の何かが想像できない自分に気づかされる人々がいる。
こういった戦後の混乱の時代は確かに共産主義的手法が有効である。限りある資源を最も効率の良い方向へ向かわせることが出来る。但し混乱が収束した後は素早く解体出来る処置を施しておくことが最も大事なことであることは言うまでもない。この手法の権力は腐るのが驚くほど速いのも事実であるから。
慌ただしく昭和20年12月は過ぎていった。時々流れてくる「リンゴの唄」が妙に戦後の世界に流れ着いたんだという感傷を誘った。
虎之助は相変わらず真っ黒に煤けたようになりながら、顔を合わす度に「兄貴、何でも言ってくれ。どんな仕事でも請け負うから任せな。」と元気よく俺に言って、子供たちを仕切りながら、様々な現場を飛び回っていた。相変わらず虎之助の体力は大したもんだと感心する俺がいた。子供たちも随分虎之助を頼りにしているようだ。将来が楽しみである。
篠原姉妹は安心な生活が戻ってきて、戦災孤児の宿舎全体を輝かせるような妙な光を与えているようだ。きっと皆に希望という目に見えない光が二人から出ているのだろうか。何とも判断がつかん。
この村にいる戦災孤児たちはとにかく勤勉であった。食べられること、暖かい服が着れること、暖かい寝床があること。ただそれだけのことがどれ程恵まれている暮らしなのかを瓦礫の中で、毎日が「お腹すいた、何か食べ物がないか。」と瓦礫の下を覗き込んでお金に変えられるものがないか必死で探し、さ迷い歩く。善悪など関係なく、食べ物があれば闇市の人間の隙をついてかっぱらって食う。雨の日は悲惨で屋根のある場所は強者しか入れない。
「寒い。」と言って力尽きた戦災孤児など毎日100人は超えていた。
そうかと言って戦災孤児狩りという政府の役人が野犬を捕獲するような狩りに捕まると、現在の野犬収容所よりも劣悪な環境で、コンクリートの鉄格子付き牢屋に何人も押し込められて、満足な食糧も与えられずに、貧弱な孤児院の空きが出るまで留め置かれる。はっきり言えば刑務所であった。それを知っているから戦災孤児たちは孤児捕獲人を誰よりも忌み嫌い逃げ出すのであった。
私見であるが、彼らには何の罪もない。ここまでボロ負けの戦争を遂行した職業軍人の責任であり、彼らの扶養料を支払うべきであると。
また、戦争遺族年金として成人までは支払うべきであると。
敗戦の混乱をもたらした無能な軍人や役人にきちんと責任を取らせて、彼らの給料を支給するなら大幅な賃金カットをして、その分で補償を考えるべきである。とする考えは過激であろうか。横道にそれた。




