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 全ての用件が片付いた後に、食堂部の日系米軍兵との交流があって夜更けてから従業員の宿舎に泊まるといういつものルーティーンに入っていた。朝一番で村に帰る。昭和20年はこうして過ぎていくのだろうな。何の情報もなく、先行きの分からない腹を空かせた日本人があてどなく食糧を求めて歩く時代の幕開けだった。

 年末にかけても目の回る様な忙しさは変わらず、村と基地と大阪の街にと走り回っていた。孤児たち全員の口座が出来、村の外郭団体企業から毎月200円、個人口座に流れるようにした。もちろん口座の全ては俺が管理する事になっている。これが孤児を村で引き受ける為の切り札なのだが、今現時点では誰も予想していなかった。

 孤児達は衣食住が保証されて安心したのか、皆表情も柔らかくなってきて、やるべき仕事や学習を結構真面目にやっていた。誰にも頼ることが出来なかった境遇は比較的短期間だが生きることの難しさを彼らに刻み付けていたのだろう。後は夢を持てる地力が付けば一人前になってくれると期待している。

最も村の公共事業としての家屋の地震補強については、評判は良くなかった。だが他の生産部門の収益が十分にあった為、復員兵の仕事として感謝されている部分もあった。村営事業としての食品部門や配達部門、林業、農業、水産、製材、木炭などの売り上げは、月を追って盛況になっていくし、米軍堺基地の食堂部の売り上げやPX(アメリカ軍の基地購買部)に卸している日本駐留の土産品も絶好調であった。

 それは、一定の品質が保証された本物であったからだ。美術品や工芸品の品質はその真贋が理解できる人間は意外と少ない。が五陵銀行の伝手で優秀な人物を紹介して貰っていた為、品質保証室長として彼、友田幸四郎を迎い入れ村の信用力を背景にかつての都市部富裕層で食糧調達が困難な層に対して食糧との物々交換を極めて良心的に行う事業を開始したのだ。美術品・工芸品・着物などはほとんど二束三文にしか農村部の田舎では評価されない。田舎の土蔵や仕舞われていた美術工芸品や着物のほとんどがこの時代の食料品との物々交換によって流れていった品物といっていいかもしれない。だからアメリカ人が好むような品物で本物を選別して提供すれば日本の文化的価値を上昇させる一助になる事業であると位置づけて発足させた。もちろん買取価格は日本の宝石市場と同じ10パーセントを上限として状態によって評価するというものであったが、一度でも農村の田舎に物々交換を体験した者に取っては天国のような公正さに感じられたようで、話があっという間に広がった。この取引がアメリカ軍に対する土産品になり、アメリカ本国に対する日本の歴史的文化的価値の向上を目的とする事業である為、通常の食糧闇取引として捉えることが出来ないという官僚の判断が指示された背景もあってのこと、摘発されない治外法権的取引となっていた。

 つまり、正規の配送員によって物資の搬送が認められることとなり、大田村配送会社からの配送を受けることが出来る事になった。このことは物資がヤミ物資として当局からの摘発を受けない事を意味し、一般人が時々なけなしの家財を田舎で食糧と交換してきたにもかかわらず一斉摘発で没収された時代では破格の扱いであった。さらにシステムとして、一括の物資購入では腐敗したり、劣化したりそもそも食品として通用するか分からない様な食品が多くのヤミ市場では出回っており、正当な食品を総支払額までの間の分割で配送することも行った為、取引制限するほどの元富裕層が集まってくる人気になったようだ。


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