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 昭和20年11月に入ってから政府による農地解放政策が発表された。村の庄屋と呼ばれるような連中はある程度覚悟を決めていたが、俺が予想していたことが現実になったという事実が俺の価値を更に引き上げたようだ。村が募集している村営事業債に応募してくる金額が目標の100万円(令和時代なら約10億円くらい)を突破した。この資金を使って村内に製材工場とパン工場と住居に変えられる多目的工場とその設備(中古品が今なら余っている。)

 漁船及び漁網。鋳物工場と鍛冶。更に耐震補強の為の大工などを計画していた。人手は家族の住居食事付きの契約であれば、有能であってもほとんど応じてくれる程の食糧難の時代だった。

山林所有者の多くと10年間の間伐植林契約を結び村営企業が材木の間伐や植林、材木加工販売を行い利益配分を所有者に行うこととした。

 戦後復興と失業者対策とした食糧配給又は労賃受取を選択できる制度にした。昭和21年の12月に確か昭和南海地震が発生したことは戦後史の小説を書こうとしていた中島健作の記憶に残っていた。

東海地震が戦争中に起き、その被害は一切報道管制によって隠されていたが、その揺れによって震源地には多大な被害が起きたであろうことはこの地に住む皆も肌で感じていた。だから話の持って行き方次第である程度備えることが出来るはず。そう俺は考えていた。

 次の日は、大地主を集めて耕作放棄地や荒れ地を一時、村の共同体事業に貸し出して貰うようにお願いした。復員兵や都市部では食糧難・就職難が顕著で親戚を頼って来る人がこの村に集まってきていた。一部の余剰労働力を食糧と交換して蕎麦などの荒れ地であっても収穫できる作物を作ってもらう計画だ。村の事業債に応募してくれた地主のほとんどは賛成してくれた。生き残るために何が必要なのかそれぞれ皆が徐々に分かって来てくれていると俺は思っていたのだが、実は大田の爺さんの一言が影響していたとは気付かなかった。世の中、戦争に負けてもそんなに社会の体質は変わらないものなのだ。

次の日は戦災孤児の一時住居の暖房を兼ねて、北側壁に薪を積み上げるように指示して、薪ストーブの設置と配管も村の設備課を連れて行った。予めお願いしておいたため、ジョンソン神父が資材獲得に動いてくれた結果、4棟分のストーブと資材が送られてきた。

 これで戦災孤児たちは、この冬は何とか乗り切れるだろう。早速お礼と教会本部へのプレゼンテーションの書類を持って行かねば。

 今の俺は、毎日やることが山のようにあってそれに振り回されているが自分で蒔いた種である。仕方がない。


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