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汽車が大田村駅にたどり着き、特別車両から皆が降りるのを待ちかねたように満員の車両から乗り移ってきた人々によって車両はあっという間に満員状態になってしまった。駅から子供たちを引率して兵士用に作ってあった簡易宿泊所に入れる前に、全員に兵士専用の風呂に入ってもらって汚れを綺麗に落とさせた。ノミやシラミなどが付いている可能性もあり、服は全員所定の箱に入れてもらった。代わりの服は銀行で紹介して貰った古着屋で古着200着と白米100キロと干物魚100キロで交渉したところ、即座に応諾してもらえた。配給は芋ばかりで、白米は夢のまた夢であったと笑って応じてくれたのだ。
テントで増設した食堂においてさっぱりした戦災孤児の皆に少々の銀シャリと呼ばれた精米された白米と焼き魚、煮魚、のりの佃煮などの海産物、芋の煮たもの、お浸し、みそ汁とお代わりの雑穀米を食べてもらった。最初は皆夢見るように見ていたが、匂いにつられて食べだすと、誰もが止まらなくなった。涙を流しながら食べている子もたくさんいた。今日の料理の用意を仕事で依頼していたおばさんたちもつられて泣く人もいた。誰もが悲しい思いを背負った時代であった。
翌朝、銀行の岩崎さんに電話を掛けて銀行口座の開設をお願いした。最終的には大田村の全戸にお願いする予定であるが、先ずは俺の周りの人から順次口座の開設を促すことをしたいためなるべく早く手続きをお願いしたところ、今日の午後一番でお伺いするとの話になった。子供たちは班分けして、大田村がどの様な仕事をしているのかを現場に連れて行って見学させている。「働かざる者食うべからず。」という言葉は餓死者が当たり前にいる戦争が終わって3か月しかならない現在では常識なのだ。特に保護者のいない人間は生きる為に何かをしなければ生き残れない世の中なのだ。やれる仕事を見つけて自分の有用さを示さなければ、異分子として村人から受け入れ拒絶反応が必ず来るという事を厳しい廃墟生活で戦災孤児の皆が自覚していた。虎之助には材木と製材班見習いの子供リーダーになってもらい一仕事依頼した。製材部が伐採した木の内、せんだんの黒い樹皮を剥がして集めてくるように指示を出した。このせんだんの樹皮を洗って煮詰めてから黒い煮液を布で濃したものが虫下しの薬となる。当時の実に95%以上の人が寄生虫に感染していたという記事を前世の俺が戦後史を調べているときに見かけたからだ。その時に簡単な虫下しの作り方を調べた結果が虎之助への仕事として割充てることとなった。ただでさえ栄養が不足する時代に悠長に寄生虫を飼っているほど食糧は余っていないのだ。そしてこれは子供たちのささやかな財源ともなるだろう。もっとも最初に試すのは俺や村の元気な人間から。それが順序だ。




