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堺基地ではジョンソン師と他にGHQの報道カメラマンも乗り込んで来た。もちろん、俺がジョンソン師にお願いしておいたものだ。大阪梅田の東側の廃墟とそれを背景に戦災孤児達の写真を撮ってもらうためだ。百聞は一見に如かず。これは後の支援活動にどうしても必要な写真となる。このことはジョンソン師もよく分かっていたから、気さくで腕のいい記者を探してくれたらしい。
記者はリック・ハミルトンと名乗り右手を差し出しながら自己紹介をしてくれた。
彼はニューヨークのブルックリン出身で、下町のアイルランド系の記者らしい人懐っこい気の良い人物であった。俺はこの人物と仲良しになって、様々な思惑に加わってもらおうと試作料理が出来たときは連絡するから、ぜひ取材して欲しい事を告げると、シミズ(俺の今の名前)の作る料理は基地でも大評判だぜ。遅い時間になると大概ソールドアウトになっている。その新しい料理を真っ先に試食できるなら、飛んできて取材するよ。と大喜びで受諾してくれた。
そうこうしているうちに国鉄梅田駅東口にジープが着くと、先月まであった闇市が一斉取り締まりにより瓦礫を取り除いたガランとした広場の中、虎之助が両手を振って、背後には大勢の戦災孤児を引き連れて待っていた。
「おお、ずいぶん集めよったなー。」と俺。
「兄貴の言いつけより二人多い102人が、配下になりたいと集まってまいりました。いざ、ご見分を。」と虎之助が見栄を切ったので、肩をポンと叩いて「ようやった。」そして、期待と不安の入り混じった戦災孤児たちを見ながら、
「これからの事は俺が皆の面倒を見る。食うことも、寝るところも心配するな。こちらのジョンソン神父に皆、お礼を言ってくれ。いろいろと世話になる。今日も大田村までの汽車を手配してもらった。ありがとうございます。」と俺がジョンソン師に頭を下げると皆も一斉に頭を下げて「ありがとうございます。」と慣れない東京弁でお礼をいっていた。皆子供ながらになかなか役者やのう!
子供たちに一斉にお礼を言われるのは、気持ち良かったらしく、ジョンソン師の鼻の穴が多少開いていたことは指摘すまい。
リックもシャッターチャンスは逃さず次々と写真を写していった。最後にジョンソン師を囲んでの集合写真を撮った。後は駅から我々の様子を見ながら、駅構内の人員整理をしてくれた国鉄職員と共に、大田村までの臨時車両まで案内されて随分汚い大名行列だったが、その特別対応ぶりに、戦災孤児の一団は目を見張っていた。いつもは、のら犬のように駅員に追い払われていた現実との違いに。




