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話が横道にそれた。大田村はハッキリ異端であった。大田村の最大の収入源は村独自の企業として一部資本提携、労働力支援、生産販売支援システム構築による対価など日本政府の資金供給に頼らずに、村独自の活動を時に外部機関を設立して目まぐるしいほどのスピードで展開していく。最初は戸惑っていた村民であったが、貧しい者であっても生活が魔法のように改善されていくことで、村民全体の意欲が爆上がり状態で村営事業の助力、推進、拡大進展と応援を惜しみなくしてくれるようになった。
そんな状態であっても、降って湧いたような戦災孤児100人の引き取りには村の有力者は反対を表明した。もっとものご意見である。しかし、生活費等の諸費用や将来の生活設計など全ての責任は俺がとること。戦争孤児を生み出した責任者の片方であるアメリカからの支援のシステムも既に考え付いていること。また、彼ら自身を育成し能力を引き上げていく事によって、この村の企業も飛躍的に伸びることも期待できるようになる。新時代の力に変えていく事を力説する。
それに、近いうちに村民の多くが感謝することになるんじゃないかな。と意味深長なことを俺が話すと、じじい的偉そうな態度を取っていた反対派の皆の目が挙動不審に互いを見回し、責任を持つということなら分かったと村長が締めてくれ一見落着となった。
ただ後で村長からは、意味深長な発言の裏は何だとしつこく聞かれたがスルーしといた。時が来れば分かると言って。
虎之助と約束した早朝にラスカル少尉が俺を迎えに来てくれた。
何でも神父のジョンソン師が大層張り切っているらしい。生活力のない戦災孤児を支援できる、それも直接ではなくあまり手間を掛けずに自分の手柄として表明できる状態で。
さらに俺の提案した戦災孤児支援システムがとても秀逸で今後とも世界で通用するようなシステムとして自らによって教会で披露できる事は何よりも心躍る事であったらしい。もしかしたら、大司教になるまでの切符の端切れをつかんだんちゃう?的な。
システム的には二つあって、一つは廃墟に立ち尽くす幼い姉妹や瓦礫の中でボロを敷いて寝ている戦災孤児たち、廃墟の中泣いている赤子を悲しそうに涙を流して見る若い母親など如何にも戦後の茫然自失とした写真を撮り、若い母親は食べるものがなくお乳が出なくなってしまったことや、両親が空襲で亡くなり引き取り手のない姉妹、保護者が死んでしまった戦災孤児たちなどアメリカ富裕層の慈善意欲をかき立てる写真や文章で約100人もの戦災孤児を引き取るための慈善支援、お金でも、小麦やとうもろこしでも良く家庭で不必要な衣類、毛布などを堺基地のジョンソン師まで送って欲しいとのお願い。
もう一つは戦災孤児の6歳以上での教育支援、いわゆる”あしながおじさん”システムで個別写真にて”あしながおじさん”を募集し、里親になれたら一年に二回、支援金額によっては毎月支援した子供の現状の写真や手紙を送ることを日本あしなが協会(ジョンソン師が取り合えず代表)によって約束する。もちろん、最初は日本語原文と通訳した英語の手紙を合わせて、後に英語教育により本人の英文で手紙を送るというシステム。
写真で見たか弱きものの悲惨さは十分にアメリカ富裕層の慈善精神をくすぐるに違いないことを確信しているとジョンソン師に言ったら、お主もなかなかワルやのうという表情をいただいたのは先日の話だ。




