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俺は闇市の偵察を終え、国鉄で堺基地まで帰り、ジョンソン師に3日後戦災孤児の引き取りに向かう時、同行してもらえないだろうかとお願いしたところ、2つ返事でOKをもらった。事前に戦災孤児の問題を神父にレクチャーしていたため、既に上層部とは話がついていた。GHQに取っては戦災孤児の問題は放置することも、手を出すことも出来ない微妙な問題であったが、軍の下請け業者が福祉的に戦災孤児に対して援助活動するという事柄は対外的に大変優越感をくすぐる事柄であった。戦災孤児を従軍神父が付き添いして列車で大田村まで移送するだけで、アメリカ本国のメディアに対しても点数稼ぎのアピールが出来る。その上ほとんど手間がかからない。対日政策としてもコストパフォーマンスは最高である。
ジョンソン師は上機嫌でラスカル少尉(大田村担当となっていた)を呼んで大田村への今日と3日後の送迎を指示してくれた。
大田村では簡易長屋住宅の建設は当初は駐屯軍の為の物であったのが、穀物倉庫を経ていつの間にかに戦争孤児の為の物に変化していた事を頭の固い古ぼけた軍国主義が抜けない中高年老人を中心に反対の姿勢を打ち出していたがGHQの意向が背景にあると分かると不承不承だが承諾をして貰った。この連中が、俺の考えた深謀遠慮を知った時、一同平身低頭の様変わりになったことは後の話である。
大田村にも徐々に戦地から戻ってきた復員兵が増えていた。その復員兵の臨時の仕事として色々な建物の建設や海産物の採取、漁業を新しい網の追加によって漁獲高を飛躍させ加工を合わせて無駄のない食糧増産と物々交換レートの採用によるインフレによる価格変動への備えをしてGHQから日本政府の役人に大田村に対して無用の圧力をかけないよう釘を刺して貰った。大田村ではさらに畑地の開発と蕎麦やきび、さつまいも、ジャガイモなどの植え付け、木々の伐採、木材加工、木炭の製造、豚、鶏などの増産、塩の製造、雑地に菜種などの栽培などなど比較的容易に増産できる食糧関連を中心とした産業を起こして、失業復員兵や家族に対する仕事の斡旋を村独自に行うことによって、急速な生活水準の回復と新産業育成のための環境や経済的基礎体力を作り上げる地盤を確立させた。これだけの事が出来たのも、占領軍関西侵攻の対応で、多くの富裕層や庄屋が現金や米などの現物を村に出資して被害を最小にしてくれと俺の方針に同意してお願いしてきたことと、終戦直後の混沌とした時代であっても村の未来に対する希望がGHQとの関係で皆に出て来たことによって出資者は更に増えていった。
実際、畑や米を作っていない住民にとって、だけじゃなく、貧しい小作にとっても働いた対価として手に入れることが難しく時間のかかるものが米雑穀、調味料、海産物、塩、畑作物などで支払われることは、配給だけでは生きていけない人たちだけではなく、全ての人に取っても垂涎の報酬でもあったからだ。
ところで、大田村では配給は労働交換をした者のみに与えられる物という不文律を設定させてもらったため、配給を貰う村人全員が何かしらの村直営の生産的なパート仕事をしてもらっている。これは戦後の混乱期においては、政府も市場も機能せず、生命を維持させる需要だけではなく、戦前の生活を取り戻す需要まで満たされる人間は権力者だけであるという当時の不文律をぶち壊すために、村という行政単位そのものを取り込んで、GHQという禁じ手で日本政府の権力者からの配給供出という収奪を防御することにした結果だ。実際に当時の日本政府は政策の不手際で多くの人が餓死し、長期の混乱期を生み出していた。
とにかく、需要と供給を併せ持つことによって、混沌とした時代に生活の安定感を持たせ、さらなる需要の供給力を増大させ、より安定した生産力や新たな生産力を作り出していく事を効率よく演出することが政治、行政の役割であり無私の精神を中心として今後の予見力、構想力、実行力などが要求されていたが旧政府事態が老朽化し腐敗していた。
戦後直後のこの時期の日本は都市部のライフラインはずたずたに寸断され、ほとんどの労働力、物資が生活に必要のない軍需産業に集中された状態で、終戦を迎え生命維持に必要な物資を大増産するための労働力、物資の供給を再構築する施策が絶望的に不足していた。その為に人々は生きる為の食物を求め多くの労力を無駄に使い、力なきものは野垂れ死にするか、暴力的集団に吸収されていくしか選択がなくなる悪循環が現出した。闇市はあっという間に博徒、的屋、愚連隊(戦災孤児などが生きる為に暴力的犯罪集団として成長していった)が縄張りとして主張しショバ代、守り代を露店から徴収する利権システムとなり抗争の種となった。なお、闇市のほとんどが土地の不法占拠からなっていた。焼け野原の瓦礫を取り除くだけで、生きているか死んでいるか分からない地主に代わって店が開業できたのだから。まさに混乱期でやった者勝ち、暴力の強いものが勝つ時代であった。




