この胸の温かさと共に
「ロベルト。お待たせ。行こうか。」
準備を終えてロビーへと向かうと、そこには先ほどと違う格好をしたロベルトがいた。
青みがかった髪は後ろへと流され、彼の掘りの深い顔立ちがより輝く。
彼の手には、黒い手袋がはめられていた。
なんだか、いつもとは違う雰囲気がある。
少しの違和感。それは私にとって決定的に違う。
『ロベルト』という存在の、立場。
それが今、変わった。
「カナリア。行こうか。」
差し出された手。優しい瞳。優しい声。でも、その底にある、他の誰かに向けられた凍てついた瞳。
そうか。彼は、公爵のロベルトなのだ。
「ロベルト。」
静かに彼に声をかける。
差し出された手をそっと取って、隣を歩く今宵のパートナーを見上げる。
「ん?」
「貴方は、いいえ、貴方様は、公爵様ね。」
確信に近い事実を告げると、彼は瞳を細めた。
それはそれは楽しそうに。
「なんて、勘がいいのだろう。君は人の微々たる感情にも敏感なのかな。そうだね。…いいや。そうだ。"私"はブロード公爵家時期当主、ブロード・ロベルト。以後お見知り置きを、我が姫。」
するりと手を解かれ、彼のつむじが見えた。
流れるようにされた騎士の礼は美しく、繊細だった。
「ええ。初めまして。わたくしはカナリア・アラン。ロベルト様、今宵はよろしくお願いいたします。」
公爵家の彼とは初対面。そして、公爵家時期当主様の側に立つわたくしも彼とは初めまして。
自分ではない自分が生まれた。
それに嫌気はない。
ただ、私が出てきただけのこと。
「はい。では、参りましょうか。」
再度差し出された手をとって、馬車へと足を進めた。
彼らを見送った公爵家の人間はこう言ったという。
まるで彼らは仲睦まじい夫婦のように、いや、それに形容し難いもっと親密な関係に見えたと。
だが、そこには少しの穢れもない綺麗な気を纏っていらしたと。
そう、それは、まるで天上より舞い降りた神のようであったと。
妖しい空気を纏わせて、彼らは会場に向かったのだった。
***
馬車に揺られる。
窓の外に見えるのは満月。
大きなその月が今すぐにでもぶつかってきそうで、カナリアは驚く。
「…」
「…」
二人は喋らない。
それが公爵とカナリアの関係。
だが、そんな沈黙も彼女たちは楽しんでいるようだった。
夜空に輝く星が馬車の道を示すようにキラキラと輝く。
ロベルトの青い瞳に月明かりと星が反射して宝石の中に星屑が入っているように綺麗だった。
カナリアは何を思ったか、窓をガラリと開け、顔を覗かせた。
カナリアの目には、煌びやかな世界が映った。
彼女の髪が風に靡く。
遠くからでもわかる会場の熱気。
これが世界なのだ。
美しき鳥が飛ぶ世界なのだ。
***
会場に着いた。
私たちは極力後の方に入る。
位が低いものが、高いものを待たせるのはあまりにも不敬だからだ。
なので、位の高いものは後から入るのが礼儀。
なぜだかわかる。
…本で読んだことがあっただろうか?
ロベルトの腕に手を添えてゆっくりと歩く。
ドレスの銀の刺繍がシャンデリアの光で煌めく。
口には柔らかい微笑みを浮かべ、軽く顔を俯け、前を見る。
周りは騒ついて、会場に来ていたご令嬢は扇子で口元を隠し私を上から下まで見つめた。
「気分が悪くなったら、直ぐ帰ろう。」
こそっと、ロベルトが言う。
「わかった。ありがとう。」
ロベルトが自然に私の方を向き、それに習って私もロベルトを見上げる。
こそっと呟かれた彼の優しさが普通に嬉しかった。
そんな暖かな雰囲気を壊す冷たい声が会場によく響いた。
「皇帝陛下の御成です。」
今までたくさんの水面ができていた湖が凪いだように一瞬で静かになる。
そして、会場にいる全員が跪く。
女性はドレスを広げ、首を垂れる。
男性は胸に手を当ててお辞儀をする。
上から衣擦れの音がする。
「よい、面をあげよ。」
重圧感のある声。
これが、誰もが従う皇帝。
今の皇帝はやり方が良いのか、貴族だけでなく、庶民にも人気がある。
それがなお、貴族の忠誠心を刺激するのだろう。
陛下のお許しが出たので顔を上げる。
………
どこかで、あったことがあるような…
でも、あの夜は…あの夜?
急に思い出せなくなった昔の記憶。
懐かしさと怒りと悲しみが混ざった感情だけが胸に残った。
でも、私が陛下に会えるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないはず。
似た人でも見たことがあるのだろうか。
これまでたくさんの町を探索したのだ。
少しぐらい似ている人はいるだろう。
そこから陛下の短い挨拶が行われ、場はダンス会場になった。
「カナリア。私と踊ってくださいませんか?」
隣にいるロベルトに手を差し出される。
私は白い手袋にそっと手を添えた。
「ええ。喜んで。今夜の私はあなたのものだもの。」
ふふ、と笑いが溢れる。
嬉しい。
貴方に触れられたことが。
少しだけ、あなたに近づけたような気がするから。
ブワッと音楽が奏でられる。
バイオリンの美しい音色とハープの優しい音色が合わさって、そこにいろんな楽器が加わっていく。
旋律に合わせて足を動かす。
ロベルトの手を握ってくるりと回る。
魚の尾鰭を彷彿させる青い袖。それがひらひらと舞ってとても綺麗だった。
ロベルトの髪も揺れる。
青い瞳は、私を映している。
私も、ロベルトを捉えている。
それが幸せだ。
あっという間にダンスは終わり、後数回は続きそうだ。
周りはパートナーを変えているが、私たちは定位置。
私はロベルトの隣。ロベルトは私の隣。
「ロベルト様。少し休憩しても宜しくて?」
「ああ。そうか、少し喉が渇いたな。」
二人で歩いて飲食可能なスペースへ向かう。
ロベルト様から受け取ったワインを飲んだ。
「カナリア。」
「はい。」
すごく小さい声だけど、私の耳にははっきり届いた。
多分風の魔法で私だけに聞こえるようにしたのだろう。
風の流れでも操作したのだろうか。
「僕は少し席を空ける。他の男について行ってはいけないからね。何かあったら呼んで。さっきのやつはできるだろう?」
「ええ。…行ってらっしゃい。」
拡声魔法のことだろう。あれぐらいなら簡単だ。なんなら詠唱なしでできる。
「ああ。行ってくる。」
ロベルトは私を一度見ると笑い、前を向いた時の横顔にはなんの感情ものっていなかった。
これが公爵。
威厳あるオーラ。
なんの感情も映さない瞳。
それでも話す時は優しく笑う。
それだけで胸が温かくなる。
ねえロベルト。
あなたは気づいていないかもしれないけど、あなたは私にたくさんの温かなものをくれる。
だから、私も何か返せたら良いなって思うようになったの。
この胸の暖かさを知ってほしいから。
ロベルト、あなたにこの胸の温かさと共に生きてほしいから。
あなたはもうこの暖かさを知っているかもしれないけど、私から渡したい。
その時、できるなら私もその隣にいたいけど。
まだ私たちは互いのことを何も知らない。
でも、周りよりは少し親しい気がするの。
私の思い上がりかしら?
それでもいい。
私はあなたの隣にいたいから。
あなたが嫌じゃないなら、側にいさせて。
▪️▪️▪️
災厄の予兆
(これで、愛は私に向く。)
ある人はそう考えた。
(ああ、なんと耳障りな。)
ある人は殺意を覚えた。
(殺してしまおう。)
ある人は、愚行へと走った。
そして、その浅はかな行動、もとい殺意より生まれた愚行は災厄を招く。