#1 第1節
前回のあらすじ:
江峰東高校の二年生、櫛見幸斗はある日目の前のものがいきなり折れ曲がるという怪奇現象に遭遇する。この出来事は彼と文化研究部との出会いを生み、そこでこの出来事は怪異による事件だと語られる。
次の日、幸斗は再度怪異による襲撃を受ける。その怪異は幸斗の同級生、織本薫が持つ「人との関わりを拒絶する意思」の具現化であった。幸斗は薫の悩みと向き合い、遂には謎の人物との契約で目覚めた「碧水」の力でその怪異を鎮めることに成功する。
その後幸斗は文化研究部に所属することになり、怪異の事件に巻き込まれることとなる。
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————月明かりに照らされて、私は目を覚ました。
ぼんやりと、月を見つめる。どうやら今日は満月らしい。その月を見ていると、なぜだか逃げ出したいという気持ちが湧いてきた。
————『月』が、こちらをみている。
月が私を見つめているような、ありもしない錯覚。でもその錯覚は確実に私の心を蝕んでいる。
逃げ出したい————逃げ出したい、逃げ出したい、逃げ出したい、逃げたい、逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げろ————!
そうだ。私の居場所はここじゃない。だから、逃げないと。そう思って私は寝室を出た。
階段を降りて、玄関に向かう。両親は既に熟睡している。
がちゃん、と玄関が閉じる音とともに私は夜風に晒される。
また、だ。月がこちらを見ている。もっと遠く、誰も見つけられないところへ、行かないと。
かつんかつん、と靴の音だけが響く。誰もいない街。この世界全てが私を否定するようだった。
しばらく歩くと、広小路に出た。ぽつぽつと、通り過ぎてく車があった。外はまだ明るい。私を多方面から照らすライトは月からカモフラージュのように私を守ってくれるような気がした。
街を歩く人々の声がする。ここなら月の目を掻い潜れるのではないかと思った。
けれど————ここも私の居場所じゃない。
逃げる、逃げる。歩いて、歩いた。
そろそろ、足が痛くなってくる頃合いだ。太ももが重く、息が浅くなってくる。これまでにない疲労感だった。もう随分と運動をしていなかったことを、ここにきて後悔することになるとは思いもしなかった。
かつかつ、と階段を登っていく。
暗い、狭い階段だった。ここなら月も私を探し出すことはできないはず————だけどそれは間違いだった。すぐそこに月の目は来ている。どこだって月には見えている。恐怖に慄き、咄嗟に階段を駆け上がった。固く、重い扉を精一杯の力を込めて押し開ける。
扉を開けた先には、コンクリートの床と、果てしない夜空があった。
どうやら私は気づかないうちに一際大きな廃ビルの屋上に来てしまったらしい。
刹那、一層強い視線が私の心臓を穿った。
ほら————もうそこに月は来ている。
もう逃げ道はないのだろうか。必死になって周囲を見渡す。
どこだ————どこだ————月が見れない場所。私を誰も見つけられない、自由なところへ連れてってよ——!
それは誰にも知られない心の叫び。私が常日頃秘めていた本心。月は私の心の中にある『虚』を見ていた。
月が心を蝕む感触。古来より月は狂気の象徴として描かれた。月に睨まれている私はもう既に手遅れなのかもしれない。
————心の虚無に、狂気が満たされる。逃げ道を決死の思いで探し出す。果てのない暗闇を必死になってもがいて、一つの光を見つけ出そうと苦心する。
探して、探して、探して、探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して、ついに見つけた。
そうだ————ソラへ行こう。
大丈夫、今の私なら飛べる。そういう確信があった。
カラダから重力が切り離される感覚。月と反対方向に私は駆け出し、屋上の縁を蹴ってソラへ飛び出した。
今、私は自由だ。何者にも縛られない。この広大なソラで、私はただ一人自由でいる————!
月を睨みながら、「ざまあみろ」って笑ってやった。悔しそうな月を尻目に私はソラを泳ぐ。
今私はソラを飛んでいる。それはまるでソラに吸い込まれるような感覚。世界から私は切り離され、すべてのものが闇に沈んでいく錯覚。横目に見る六から十階建てのビルたちも、今や私の足元にあった。
————だがそれは永遠ではない。
いかなる生物であっても、それは免れない。空を飛ぶということはいつか必ず地に脚をつけなければならないということ。
飛行と墜落はセットのものであり、私がこのまま墜ちることは至極当然のことだった。
ああ、今回も飛べなかったか……
それはいつも通りの後悔。私の人生はいつだってそうだ。訳の分からない焦燥感に駆られて、向こう見ずな決断をしてしまう。
「今度は、ちゃんと着地のことも考えないと」
そう独り呟いて、私は落下を開始した。
超スピードで動く無機質なビル街。まるで私を置いてけぼりにするように、ビルたちは私の視界を横切って追い抜いていく。
その光景を直視していると、ひどく涙が出そうになった。どこへ行っても私は独りで、誰もこの最期を見てはくれないのだと。
そろそろ地上に着く頃だろうか。だったらせめて最期は静かに、平然とその死を見つめることにしよう……
瞳を閉じて意識を闇の世界に傾ける。もはや何も感じない。感じる必要もない。ただ私の中の『空っぽ』が、私とともに崩れることを待つのみ。
————そうして、私はこの母なる大地にキスをして絶命した。
◇
夥しい恐怖と、焦燥感、そしてこの世のものとは思えない痛みの錯覚とともに、私は目を覚ました。あたりを見渡すと、私は自宅のベッドの上にいた。
この胸に残る違和感はなんだろう。ひどく、気持ち悪い夢を見ていたような気がする……
そんなことを考えていると下の階から母親の声が聞こえた。
「菜乃花ー、朝ごはんできたわよー」
その呼び声に「はーい」と返事をしながら階段を降りていった。
食卓に並んでいるのは二つのソーセージと、スクランブルエッグ。その隣にのケチャップで炒られたミックスビーンズが乗っている。
食パンと一緒にそれらを口に運ぶ私。なんだかいつもより一口が小さいように思える。その様子を見た母が心配そうに声をかけた。
「どうしたの今日、なんか具合悪いの? そんなボソボソ食べてたら遅刻するわよ」
今はその声すら鬱陶しく感じる。なんというか落ち着かないのだ。何か重要なことを見落としているようで、心の中に焦りが生じる。
多分きっと昨夜の夢のせいだろう。そう頭の中ではわかっているのだが、やはり気になってしまう。
まるで胸に穴が空いたかのような、何かが満ち足りない感覚。得体の知れない焦燥感に私は嫌悪の心を滲み出させていたのだった。