倒錯傾蒙 その5
『去潮』によって印された足跡から、星座によるセーフゾーンを導き出す。
「これでフェアになったな。まるで下校中の小学生が横断歩道の白線だけを踏んで渡るみたいにまどろっこしい話だが、要は気をつけるべきことが一個増えただけだ。何ら問題はない」
「ふ、思いの外早い対処、流石というべきか。とはいえ、見えるだけだ。であればこのように……ッ!」
黒い球体が女の膝へ急接近する。今回の『黄道の十番、仔山羊の尻尾』による攻撃は、避けること自体に難はない。
問題は避けようとして脚を地面から離してしまうと、次の着地地点を狙われるということだ。
(誘っている——先に仕掛けた方が有利な読み合いに。だが、否——だからこそ敢えてその誘いに乗ってやろう……)
宙返りをしながら安全な着地地点を目視する。
レグルスを超えてポリュクスへ。北極星を跨いでデネブ、ベガ。星々を踏んでは跳ぶ星間跳躍。
擬似的な宇宙を駆け巡るように八敷意はシャルディーンからの攻撃を避けていた。
「どうした? 避けてばかりではどうにもならんぞ? それとも反撃するから隙すらないか! 尤も、反撃させるつもりはないのだがね」
事実として、彼女に反撃できる余裕はなかった。だがここで挑発に乗って迂闊に攻めるのは悪手だ。
故にここは回避に徹する。部屋の西から東、南から北へ、縦横無尽の移動の中で的確に安全なポイントにのみ着地する。
対するシャルディーンは一度も脚を動かさない。敵がこちらに接近する素振りすら見せず、ただ攻撃を避けるだけであれば移動の必要性がなかった。
こちらが攻撃するたびに女魔術師は視界から外れるほどの距離とスピードで飛び跳ねる。
次第に女は加速していき、中心にいるシャルディーンを取り囲む軌道が残像となって映る。
「速さ比べ……それとも体力勝負か? どちらにせよ、こちらの方が優位ではないかね?」
シャルディーンの言う通り、相手の体力を削ぐという点で言うならむしろ逆効果——自身の体力を大きく削いでしまう。しかしそれが彼女の本当の目的ではないとしたら?
彼女が移動をすること——星座のセーフゾーンを踏むこと自体が目的であるのならば——。
「先日の戦いでは面白いものを見せてもらったのでな。真似させてもらうことにしたよ」
女の呟きに、白髪の魔術師は狼狽えた。
そしてその一瞬の隙が、不用意にも八敷意の接近を許してしまった。激しいスピンの掛かった蹴りが男の脇腹に深く食い込む。
部屋自体に掛かった魔術であるが故、そのルールは作成者本人であるシャルディーンにも適用される。彼は蹴りの衝撃で宙を舞いながらも冷静に星座の刻まれた地点に着地したが——。
「炎が……⁈ まさかッ! 踏んだ位置に罠を仕込んでいたのか!」
足元から迫り来る炎の魔術に思わず脚を地面から離す。その地面には点火のルーンが刻まれていた。
「ルーンは私の専門ではないが、このくらいの芸当はできる。道具に刻んでおくことで発動の直前まで感知されずに済むというのは意外にも私の手持ちにはなかった。短期間でやってみただけのものだったから少しヒヤヒヤしたがね」
八敷意はつま先を地面に叩きつけ、足を靴の奥に詰める。その靴の裏——地面との接触部分にはルーンを刻むための突起が付いていた。
着地すればそこは炎が立ち上るか爆発が起きるかの二択。いずれにせよ長いこと地に留まることはできないので、シャルディーンはタップダンスのように踊らされた。
「ふふ、これはなかなかに厳しい。だが床を足場にできぬというなら、他に足場を見出せばいいことよ!」
壁を蹴って跳躍。競泳のクイックターンさながらに、今度はシャルディーンが八敷意を包囲した。
壁には星座のセーフゾーンはなく、したがってルーンの刻印もない。故に地に脚をつけることがない限り、火柱も爆発も起こる道理はない。だというのに——炎が世界を染め上げる。
「ルーンは必ずしも踏んだら発動するわけではない。私の魔術なのだから当然だろう?」
炎は延焼し、壁をつたい、天井までをも灼き尽くさんとする。
逃げ道は無し。ここからシャルディーンが抜け出すにはこの部屋を捨て、外の世界へ出る他はない。
迷う時間もなくシャルディーンは天井の照明を突き破り、空間からの脱出を試みた。
「この空間を用意するのにそこそこの費用を払っていたのだがな……だが、仕方があるまいよ」
悪態を吐きつつ男は空間を裂き進む。それに伴って部屋にヒビが入り、空間の崩壊が始まる。
女魔術師が天井を仰ぎ見れば、外の世界の空——時刻は9時になろうとしていた。
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