倒錯傾蒙 その1
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「準備ご苦労様。それでは各自家に帰って寝るように。明日は朝の9時にここへ集合してくれ」
僕らが準備をしている間に、日は完全に沈んでしまっていた。
廃校の校庭の面積はおおよそ2ヘクタールほど。その敷地内に等間隔で八敷先生の呪符を設置した。
文研部一同は一刻でも早く疲れを取り除こうと帰るべく、踵を返して歩みを始めたのだが、そこで——ふと、幸斗は振り返った。
「あれ、先生は帰らないんですか?」
「ああ、言っただろう? 先に潜入していると」
「でもそれは明日の話じゃないんですか?」
「いいや、今からだ。攻略に時間がかかることを見込んでいるのでな。早すぎたときは、私一人で十分だったということだから、それなら朝のうちに連絡をつけておく。逆に連絡がなかったらここに来てくれ。入るときにこちらから合図を送る」
————という話になって、家に帰っても心配が勝って上手く眠れなかった。
なんとか心を落ち着かせようと、深く息を吐いて目を閉じる。
『少し、話をしないかい?』
脳の奥から声が響いてくる。先生たちの調べによると龍神の分霊たる存在だというトリープと呼ばれた怪異のものだった。
「人が寝ようとしている時に…………まあいい、正直眠れそうになかったしな。聞くよ」
『ありがとう。——それで、話したいことは君の治癒能力についてなんだけど、あれが私の影響によるものだというのは間違いない。けれど少し妙なんだ』
「……というと?」
『一番初めの、オリガミに攻撃された時を覚えている?』
「この力を手に入れたときの?」
『その前の下校中。ほら、花岡君と下校してたとき』
「ああ、そっち……それがなにか?」
『既にあの時点で、君は治癒能力に目覚めていたんだ』
「……ちょっと待ってくれ、僕が碧水の力を得たのはそのあとだったはずだ。そのときには既に君がいたのか?」
『確証はないけどそういうことなんだろう。今の自我ができたのは割と最近のことなんだ』
「…………じゃあ、あの話も覚えてないの?」
『あの話ってどの話?』
「僕が能力に目覚めたときのこと。ほら、契約がどうこうって…………」
『……ああ、あれね。あれは覚えているよ。というより、刻み込まれてるって感じかな』
「あの契約ってどういう意味なの?」
『私の願いの叶えてもらうことと引き換えに、力を貸し与えること……』
「で、その願いって?」
『それは…………その、とても曖昧な願いで、君が理解してくれるかどうかもわからない話だけど、驚かないで聞いて欲しい…………私は————生を実感したいんだ』
「それは——」
生————それは遍く命が初めに与えられ、いつしか失われるモノ。
だが神にその感覚が存在するだろうか?
『私には長い間存在してきたという事実があるが、その一方で生きてきたという実感はない。私は龍神としてその役割を果たしていたにすぎないからだ。だから、こうして君と肉体を共有して<生きる>とはどんな感覚かを知りたかったんだ』
「…………」
普通の人として生まれてきたこの身には理解し難い感情だった。
『それで……話を戻すよ。君の治癒能力についてのことでね。これは私の憶測だけれど、私が分霊化してから君と契約するまでの間に私は既に君の体に宿っていたとして、私がなぜ君を選んだのかは大きく分けて二つの線があると思うんだ。
一つは君が私を呼びつけたという可能性——君の願いが私と呼応し碧水を授けるに至った。そしてもう一つがその逆——私が君という器を選んだという可能性…………。願ったのはどちらかという話だね』
トリープには生を実感したいという願いがあった。——じゃあ、僕にはどんな願いがある?
『その順番が大事ってわけじゃないけど、君は私に何を願ったのか。そこが知りたいんだ』
願い……あのときは薫を助けなくてはいけないということでいっぱいだった。だから彼を助けたいということ——それがトリープと自身を繋ぐ願いだったのではないだろうか?
『いいや、もっと広く……人を助けたいという願いとかなんじゃないか?』
その言葉に、僕は違和感を感じた。
「人を助けたいことが……願い?」
薫の冷え切った瞳を見て、僕は助けたいと思った。だがそれを願いと呼ぶのだろうか。そして目の前で苦しんでる人を助けたいという考えは願いになるのだろうか。
「僕はただ、助けるべきだと思ったから助けただけだ」
『……? それは使命感というやつかい?』
「どうだろう。そんな大層なことでもないと思う。できることだから、やった。それだけの話だよ」
『やっぱり君はみんなとのズレを自覚できてない。実際、私と出会えていなければ君には出来なかったことだ。————献身的な自己犠牲……そこには素晴らしい一面もあると思うよ。だけどね、それでマイナスが生まれちゃ意味がない』
諭すように語りかけるその声も、僕には真意が掴めない。
だって——それが正しいことならば、それに従うことは良いことではないのか。
『君には……その、したいこと——願い事は無いのかい?』
そう問われて遂に、僕の中には願いがないことをはっきり知覚させられた。
人を助けようとするのは己が発した意思ではなく、周りが——世界がそれを求めているからなのではないだろうか。
「僕には……望めるものはない。僕は僕が正しいと思ったことに従う……それが信念だ」
『そんな生き方は奴隷だ……正しさの奴隷————そんなんじゃなくて、君はもっと自由に——望むままの生き方だってできるハズなんだ……‼︎ それなのにどうして……‼︎』
なんでそんなに熱くなっているんだろう。
いい加減寝かせて欲しいと思ってきたところだった。
人は誰だってそれぞれ個人個人の信念を持っているはずだ。それを否定されて無神経でいられるほど、僕も能天気じゃない。
「言いがかりならもうよしてくれ。もう寝るから、話しかけてくるな」
そう言って強制的に思考をシャットアウトさせた。
明日はきっと、壮絶な戦いになるだろう。
敵の狙いが僕だと分かった以上、これは避けられない。みんなにはとても迷惑をかけてしまうかもしれない。
だから——みんなが無事であって欲しいという思いは、僕から生まれた願いであって欲しかった。
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