#1 第4節
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小鳥である僕は、空を自由には羽ばたけない。
目の前にあるのは細やかな木の格子。
ちいさなちいさな檻の中では、翼を広げることすら叶いはしない。
でもそれでいいのだ。
だって、空にはとっても怖いカラスが僕を見ているのだから。
鋭い瞳でこちらをじっと睨んでいる。
それも一つや二つではない。
僕を覆うような視線の数々、逃れることはできないようだ。
ある日、一匹の小鳥が僕の目の前を飛び去った。
その小鳥が目を輝かせていたのは、それから数秒後までのことだった。
羽根を捥がれ、地に叩きつけられていく小鳥の姿が盲目に焼き付けられる。
白い羽根は真紅の血で染まり、中から吐き気のするような赤が漏れ出していた。
次にこうなるのは自分かもしれない。
檻の外から必死に嘴を捩じ込もうとするカラスたち。
その時、誰かが檻の扉を開けた。
その鳥は、僕らと同じ白い羽を纏っていた。
付いてこい、と言わんばかりに羽を広げて飛び立つその鳥は、カラスたちの追跡を逃れて大樹の枝の先で羽を休めた。
その鳥は僕よりも何倍も大きな羽で僕を覆い、身体を暖めてくれた。
でもそれは僕を逃がさないようにするための囲いだった。
同胞だと思っていたその鳥は白いカラスだった。
執拗に啄み、羽根を毟り、肉を剥き出しにしてじっくりと僕の身体を痛めつけた。
命からがら逃げ延びて、雨降る土の上で眠りについた。
白きその身体は血の赤と、土の茶色が混ざり合い、濁り切って元に戻ることはなかった。
◇
胸に燻るのは不安と期待。一歩一歩歩くたびにその思いは積み重なっていく。
やっぱり来なければよかった。——そう思ってしまうけど、ここまで来たなら仕方がない。
あの日の八敷先生との車内で、櫛見くんは僕に語りかけてきた。
『これからも学校に来てほしい』
その言葉に何故、と返した。
『だって、ずっと独りは寂しいだろ?』
——でも僕は二人を傷つけた。彼らと面と向かって話すことなんて、できない。
『いいや、これからやり直せばいい』
なんてことなく、彼はそう言った。
そんなことが許されるのか。
『許す? それは違うよ。むしろ向き合うべきことなんだ。一度の過ちをまた起こさないためにもね』
その言葉が深く刻み込まれた。
あの車での僅かな時間。確かに生まれ変わったかのような気持ちの変動があった。
ドアの目の前に着いて、一呼吸置く。がららら、と耳障りな音を立てると一斉に周囲の視線がこちらへ向かう。
いつもはこの瞬間が嫌いだったので早めに行くことにしていたが、案外このプレッシャーも悪くないものだな、と感じることができた。
あの日から一週間経った今、僕————織本薫は『やり直し』を進めている。一度ゼロになってしまったものを、人並みに合わせていくことは難しい。
──だけどそれはできないということじゃない。
「おはよう」
その声掛けに──
「おはよう」
──と返す。
そんな単純なところからスタート。でも、その一歩は重く、大きい。
以前杉田先生や花岡くんに声をかけられた時はその言葉は出なかった。
今思えば彼らはとてつもない大きな善意で僕を迎えてくれたと思う。
でも僕はその善意を受け止められず、恐怖した。
だから彼らを攻撃してしまった。
そんな僕にもやり直せると言ってくれた彼──櫛見くんも僕に善意を以って接してくれた。
『傷つくことを恐れるな、傷つけることを恐れるな』
人は脆く、痛がりだ。だからこそ人は共感し、支え合う。そうして今の社会を築き上げたのだ。
傷ついた分だけ強くなれるというのは詭弁だと僕は思う。だけど傷の痛みは傷ついた人間にしかわからない。
だから何もわからないままで心を閉ざしてしまったあの時の僕のままでは、誰かを傷つける罪深さを自覚できないでいた。
あの『拒絶』の力が発現したのは、春休みの半ばのことだった。
長いこといじめや嫌がらせを受けてきた僕は、不登校になり他人との関わりを絶って生活していた。
高校はなんとか入ることができ、初めは今度こそ上手く行くと思って半年ほど通っていたが、次第に来れなくなってまた不登校に戻ってしまった。
親からは心配され、それ以外の人にも声を掛けられることが鬱陶しくなり、遂には部屋の外に出ることすらもが嫌になった。
そんな時に現れたのが、あのヒトのようなシルエットをした紙っぽい材質のヤツ——櫛見くんと対峙した後の八敷先生の車の中で、彼女はあの存在を『オリガミ』と名付けていた——だった。
その『オリガミ』は初めはただの幻覚だと思っていた。だがアイツは確かに僕に語りかけてきた。
『願え』————。
その声が頭に響いたときは、何を意味するかまったく見当がつかなかった。
しかしそれから程なくしてその真意を知ることになる。
いつも通り、昼頃になると階段を登る音が聞こえてきた。
母親が料理を運んできたのだろう。そのこと自体はなんとも思っていない。しかしこの時が来るたびに学校へ行こうなどと呟かれるのが堪らなく不快だった。
そしてそれは小さな『願い』となった。
階段を登る途中で音のリズムが乱れた。そのことに気付いたその直後には、がしゃん、と食器を落とす音がした。
偶然かのように思えたそれは何度も起こり、そこで自らの意思によって生まれたものだと認識した。
そこで一つ、試してみることにした。
窓の向こうから見えるあの後ろ姿。中学の時に僕を裏切って嫌がらせをしてきた男だ。
あいつは毎日この時間に自転車を走らせている。僕のことを忘れて。
だから『願った』——あいつが痛い目に遭ってる姿が見たいと。
その望み通り、あいつは転倒事故に遭った。
これは本物だ。幻覚でも、妄想でもない。僕が授かった力なのだと理解した。
それからは今まで僕を虐げてきた奴らに報復として、転倒事故に見せかけた攻撃をした。
そして春、不快といえど親を何度も傷つけるのは忍びなかったので、学校に行くことにした。
そうして学校では近づいてきた奴ら——花岡くんに杉田先生を転倒させて危害を加えた。
そうやって人を傷つけて孤独で身を固めている時に、櫛見くんがきた。
彼によってオリガミを封印された今、そのようなことをすることは二度とないだろう。しかし、一度やったことは取り返すことはできない。
だからこれは僕が背負うべき影だ。
いかなる懺悔も贖いとはならない。ましてや僕がしてきたことは相手に伝えようのない出来事だった。八敷先生曰く、怪異は一般の人間には認知できない。なので杉田先生や花岡くんにこのオリガミのことは単なる事故のまま、いつしか忘れ去られるものになる。
しかしそれは僕には適用されない。
たとえ相手が真相を知らずとも、それによって罪の精算ができずとも、背負い続けて、向き合い、生きる。
これから学校という社会で生活する上で、二人との接触は免れない。この罪を隠したままでも、二人と目を合わせて話すことを心に誓う。
それが僕の『折り合い』だ。
◇
昼休み、目の前に誰かがいる食事。何気ない会話が一日を彩る。
何年と忘れていた感触だ。今僕の目の前には花岡くんがいて、その隣に櫛見くんがいる。
「本当に無事に戻ってこれて良かったよ」
櫛見くんが花岡くんに声をかける。原因は僕にあるものだけど、僕の中に巣食っていた怪異のことを他言してはならないと八敷先生に伝えられた。
『隠し事一つない友情なんて存在しない————折り合いをつけて生きることが大切なんだ』
それはとても心苦しいものだった。
二人との会話が続く。なんて事のない学校生活の話から今は趣味の話まで繋がった。僕はロボットアニメが好きなのだが、二人も話が合うようだった。
「じゃあ今度映画行こうぜ。三人でさ」
そう切り出したのは花岡くんだった。
「いいね、行こう」
現在上映中のロボットアニメの映画、僕はすでに観ていたのだが、その感想を伝え合う相手がいなかった。彼らが観てくれるというのなら、僕としてはこの上ない喜びだった。
「ああそれ、ネットで話題になってたから観てみたいと思ってたんだよ。でもそれ結構シリーズ長いだろ? だから一から観ないと内容わかんないかなーっと思って敬遠してたんだけど、いけるかな?」
櫛見くんは初見さんか……これは是非沼に沈めてやりたい。
「シリーズと言ってもこれは本編とは分離した作品だから、初見でも大丈夫だよ」
「そうか、じゃあいこうかな」
やった。コレは彼の感想が楽しみだ。
「よし、じゃあ今週の土曜日空いてるか? その日の昼過ぎ集合にしようと思うが」
「ああ、それでいい」
僕らは頷いた。わくわくで興奮が止まらない。
下校時刻になっても興奮は鎮まらず、なかなか寝ることができなかった。
◇
映画館に着いた。待ち合わせ場所はここのはずだが、どうやら僕が一番乗りのようだ。
それから程なくして、おーい、という声が聞こえた。
奥から花岡くんと櫛見くんが現れた。
「おお、揃ったな。わりぃな、ちょっと遅れちまって」
全然いいよ、と僕は返す。
そのまま映画館の中に入り、チケットの購入とドリンク、ポップコーンの購入を済ませた。
劇場に入る。まだ照明がついていて明るい。スクリーンからの音声や周囲の話し声などで賑やかだった。
しばらくすると照明が消え、全体が一気に静まる。僕はこの瞬間がすごく好きだ。テレビやスマホでは味わえない独特の没入感がある。
どぉん、と響く音が現実を非現実に塗り替えていく。
熾烈な争いが繰り広げられ、爆発の連続が続く。序盤から激しい戦闘だった。宇宙空間という舞台設定をうまく活かした立体的なアクションが僕らを魅了した。
物語も佳境に入り、鮮烈なドラマシーンに入る。主人公とヒロインとの恋。敵の総帥が語る信念。味方が抱く不安感。そのどれもがこの物語の魅力を引き立てていた。
上映がひと通り終わった。いつ見てもアレは傑作だった。だが前回見た以上にそれは満足感があった。
それぞれが感想を言い合う。
「うん、初めて見たけどすごく面白い。特に敵たちが魅力的だったね」
「そうそう! だから主人公たちとの信念のぶつかり合いが燃えるし、それを圧倒的神作画のアクションで際立たせてるよね!」
楽しい————
最後にこんな気持ちになったのはいつだっただろうか。
会話が止まらない。今まで嫌で仕方なかった他人との関わりが、こんなにも尊く思えるなんて。
二人が笑顔で話すと、僕にも笑顔が移る。
そんな周りには当たり前の休日が、初めて得られたのだ。
「じゃあオレはこっち側だから」
帰る途中、花岡くんが離脱し、櫛見くんと二人きりになった。
しばらく無言で歩いていたが、ついに別れる時が来た。
「あのさ」
僕は問いかける。
「どうした?」
「……どうして、僕を助けようと思ったんだ?」
あのときの僕は敵だった。敵ならば話し合おうとせず、倒すことか、逃げることを考えるはずだ。
「……わからない。ただ君の顔を見ていたら、助けなくちゃいけないなと感じただけだ」
その答えを僕は薄々勘付いていた。彼はそういうことを言う人間だと。その理由はわからない。だが——彼の心の奥には何かがある。そういう確信があった。
「僕はここで曲がるから、そんじゃまた明日!」
「うん、また明日」
そう言って、僕は彼と別れ、家に帰っていった。




