#4 第3節
「どうしてここに来たんですか、先生」
薄暗い路地裏に梁山浄の声が響き渡った。
「先日、私の生徒がこの辺りで君のことを見かけたと聞いたんだ。それで——」
「——違います。なんで今になってオレの前に現れたって意味ですよ」
「っ、それは…………」
八敷先生には返す言葉がなかった。二年もの間、彼を孤独から救い出せずにいたという事実は、彼女に深い負い目を感じさせていた。
「オレの怪異はどうやっても剥がせない。完全に眼の中に棲みついて、無理に剥がそうとすれば失明する。そう先生が言ったんですよ。……もうオレは諦めてます。これ以上誰かを巻き込むことなんてする気はありません。なんのためにオレに会いに来たかは知りませんが、手伝いとかだったら、他にいるでしょう。——もう、帰ってください」
きっぱりと拒絶の意思を表明する浄だが、八敷先生とてそれで、はいそうですかと引き下がるつもりはなかった。
「勝手な申し出だとは重々承知の上だ。しかし私は、それでもまだ教師として生徒を守る責務がある」
「だったら、どうして!」
浄が語気を強めた。
「——どうして、オレの眼を潰さなかったんだ! 自分で眼なんか潰せない。アンタが……アンタがやってくれたらオレはここまで苦しむ必要なんてなかった!」
「……それでも、まだ諦めないでいてほしい。私は、その力が君のためになるはずだと信じている」
「身勝手なことを! この眼のせいでどんなことになったか知らないわけじゃないだろうっ! ……今からでも遅くない。先生、この眼を潰してください。お願いです」
「…………それは、できない」
重々しく吐かれた言葉は、しかし彼をさらに激昂させることになった。
「どうしてっ!」
「現に今、私は君の力を必要としているからだ」
「そんな都合の良いことがっ! 先生だったら許されるとでも言うんですかっ!」
ビルの隙間で反響し合う叫び。思わず八敷先生は後退した。
「君にはなんの得もないかもしれない。だがそれでも私は私の目的のためにこうするしかないんだ」
「…………はあ。アンタは、そういう人だ。わかってるよ……先生がオレを必要と考えているなら、それは正しいことなんだろう。——だから条件を出します」
きりっ、と浄の眼が鋭く八敷先生を見据えた。
「前に話していたかな……オレには妹がいるんです。随分顔も合わせていないですけど……最近母親から連絡があったんです。——原因不明の奇病にあったと」
「まさか……怪異か?」
「その通りです。だから、オレの妹を助けてくれるというのなら、協力します。条件はそれだけです」
その条件は八敷先生にとって容易いことのように思える。だがこの条件に対する承諾はそれ以上の意味があった。
それはつまり彼女の覚悟——責任と信頼を問う条件だ。
これを承諾するということは、浄を二年も放置したという事実に対する一種のケジメでもある。
「…………わかった。約束しよう。この件が終わったら妹の所在地を教えてくれ」
その言葉で交渉は成立した。彼女の返答の重みは側からでは計り知れないものだが、浄はそれを信じようとした。
「アンタがそう答えてくれるのなら、オレも協力しますよ。まだ信じていたいので」
そういって浄は八敷先生の隣を通り過ぎ、彼女の後ろに回った。
だんだんと空が暗くなっていたことに八敷先生はこのタイミングで気付いた。時刻はそろそろ六時を回る頃だろうか、完全に日が落ちる前にトリープ達と合流すべきだと判断した。
「本当に良いんだな。……なら、付いてきてくれ」
路地裏を出て、二人は夕日に照らされた大きな通りに立つ。
途端に吹き抜ける風。戦いの予兆だった。




