断章 PPP小噺 その1
「あれ、ここなんの店だったっけ?」
隣からこちらに囁く声が聞こえた。その声の主は僕の友人、花岡夏輝だった。
その声に耳と目線を向けると、彼が窓の向こうの光景を指差していた。示された方へ視線を移す。彼の指先から少し手前にズレた方向に白い養生シートで覆われた建物の跡地が聳えていた。
「あーっと……なんだったっけなあ。思い出せないや」
そう僕が呟いている間にもその建物の跡地は僕らの後方へと過ぎ去ってしまっていた。
普段見慣れている街並みであっても、いざ変化が起こると案外思い出せないもので、これ以上考えても無駄だと思い、話題を切り替えた。
「それで、今日は何しにいくんだっけ」
「何って、そりゃおまえ、夏なんだから海行くに決まってんだろ。大体おまえが夏休みに遊ぶ約束持ちかけたくせに、行く先決めてねーしでこっちに丸投げするからそんなセリフ吐けんだよ」
そうだったそうだった。僕こと櫛見幸斗は、友人の花岡夏輝と一緒に、市内の路線バスに乗って海辺にあるキャンプ場へ行こうとしているところだった。
「まあ、丸投げしたことは謝るけど……そもそもキャンプってなにするんだ? 僕は全然何も持ってきてないけど」
膝の上にあるリュックサックの中身を覗いてみても、キャンプらしい荷物は何もなかった。あるのは海で泳ぐための水着と、濡れた身体を拭くためのバスタオル、あとは財布くらいのものだった。
「そのことなら心配ねーよ。オレのリュックの方に大体入ってる」
ぽんぽん、とはち切れそうなほど膨れた自身のリュックサックを叩きながら花岡は微笑を浮かべた。
「それならいいけどさ……二人で行くにしてはやけに多い気がするぞ。その中身何が入っているんだ?」
「そりゃま、バーベキューするためのいろいろ」
中身を見せてもらうと割り箸や紙コップ、トングや木炭などの諸々が敷き詰められていた。
「それにしたって多いだろ……ってちょっと待った。食材はどうした?」
「ああ、それについては心配ねえよ。着いたらわかる」
そうして、目的地に着いた。
「あら、随分と遅かったじゃない」
その声は僕のものでも、花岡のものでもなかった。キャンプ場の入口でこちらに声を掛けたのは僕が所属している文化研究部のメンバーの一人である真風屋美佳だった。
「え、ちょ……なんで?」
思わず間の抜けた声が漏れ出てしまう。
彼女に今日のことを話した覚えはない。文研部で遊びに行くことは多々あれど、花岡と遊ぶときに誘うことは今までにもなかった。
「なぜと言われれば、花岡さんがこちらにお誘いの言葉を掛けてくれたからですよ」
僕の背後からいきなり声がした。その声はもう一人の文研部のメンバー、和泉荒志郎だった。
「花岡、あの二人と関わりがあったんだ」
「春の退院の時だな。おまえと同じ部活のメンバーだって言って、お見舞いに来てくれたのよ」
僕の知らないところでそんな話があったとは…………。
「それからちょくちょく話すことはあったんだがな……。一緒に遊ぶことがなかったもんで、おまえと遊びに行くならちょうどいいタイミングだと思ったんだ」
そう言いながら花岡は二人のもとへ歩み寄って問いかけた。
「それで、どんなモン買ってきた?」
「四人分のお肉……種類はできるだけ多く。野菜はまあにんじんとたまねぎがあればいいでしょ。それからマシュマロも買っておいたわ」
美佳がクーラーボックスを開けると、中には様々な食材が敷き詰められているのが見えた。
「おお、いい感じじゃん。——んじゃあ、とりま準備の方を始めるとすっかー」
花岡が足元の袋からテントを広げた。
「おらっ、おまえも手伝え」
テントの金具を掴みながら肘で僕を軽く小突く。その動作に促されて僕は花岡と対称の位置に向かって金具を手に取った。
いざ手に取ったはいいものの、僕はテントを扱った経験がないので勝手が上手くわからない。なので花岡の指示に従うだけで精一杯だった。
なんとかテントの設置を完了し、各々水着に着替え始める。
僕らがテントを張っている間に荒志郎と美佳が用意してくれたバーベキューのセットに、火を点ける。
「まずは何焼くー?」
「まずはタンからでしょ!」
「ワタシはたまねぎを所望します」
花岡と荒志郎がそれぞれ意見を出す。美佳はそれに応えてクーラーボックスから牛タンと輪切りのたまねぎを取り出した。
「それで、幸斗はどうすんの?」
美佳がトングをカチカチさせながらこちらに問いかける。
「ん……じゃあ、僕はハツで」
我ながら渋い選択だなとは思う。ただ野菜は頼む気になれないし、かといってメジャーな肉二つを一度に出してしまうのはどうかと考え、たまたま目に映ったハツが適任だと思い、結果こうなってしまったのだ。
僕は食材の焼き上がる様をまじまじと見つめていた。
バーベキューの火の調整は適宜交代して行うようにしたのだが、網に食材を置いてから数分としないうちに美佳がこちらにトングを無理矢理渡して交代を強いてきたのだ。
「マジ暑い、無理」
そんな捨て台詞を吐いて美佳はすたこらと海に潜っていってしまった。
その様子を見ていた荒志郎と花岡も後に続いて海へと向かい、僕はテントに一人取り残され、黙々と肉を焼く状況が続く。
バーベキューというものは、ただ食べ物を焼くだけの行為だというのに、どうしてこんなにも特別感のある行為になるのだろうか。
普段家で食べる肉とそう大した違いがないのに、その身がこんがりとした色を出して行く過程をひたすらに観てしまう。
焼き上がった片面をひっくり返すたびにジュワジュワとした音が耳に響いてくる。
だがその音自体に何も普段と変わったものはない。変わっているのは場所なのだ。海の近くで肉を焼くという状況こそが特別感という錯覚を生み出しているのだ。
しばらくして、肉が焼けた。紙皿にそれぞれの個数を置いて周りに野菜も並べていく。
そろそろ美佳たちを呼び戻そうかと思ったが、その前に彼女たちの方から戻ってきた。
「ん、海潜ってきたわけじゃないのか」
濡れているのは脛のあたりまでだったのを見て僕はそう問いかけた。
「まあねー。流石にもうすぐ昼ってときに潜っても時間がないし」
よかった、僕に抜け駆けして三人で泳いでいたということはないようだ。
「本当に良いタイミングだよ。ちょうど焼き上がったところだったんだ」
三人が皿に乗った食べ物に視線を向けるとすぐさま箸を手に取り、揃って牛タンを口に頬張った。
「ン〜夏の牛タンサイコォー!」
「こういった雰囲気で食べるものは不思議と美味しく感じますねぇ」
「そうね! やっぱ夏はこうでなくっちゃ」
三人が歓喜の声を上げる中で、僕も牛タンを口に運んだ。
「あっ、美味しい。ちょうどいい焼き加減だ」
「そりゃ焼いたのはおまえだろ。自画自賛じゃねーか」
思わず漏れ出た言葉に花岡がツッコミを入れた。
そのおかげか四人の会話は絶えることなく、気づけば二回目のグリルが始まろうとしていた。
「じゃあ、今度はワタシが焼いておきましょう。ゆっくりやっていきますので、その間みなさんで楽しんできてください」
僕と花岡と美佳の三人で海で遊んだあと、ひとしきり掛け合いまくって濡れた身体を砂に横たえて、僕は花岡と話した。
「そういやあ、おまえが部活に入るって聞いた時は驚いたよ。しかも文化研究部だろ? とっくに廃部になってるとか、部屋が残ってるだけで部員はいないとか噂になってたんで、最初は冗談だと思ったよ。……やっぱ部活って楽しいか?」
僕が文化研究部に入ってからもうすでに四ヶ月が経っていた。はじめは右も左もわからずで大変なことばかりだったけど、今はもうそこまでじゃない。とはいえ困難がないわけじゃないし、辛いことも多々あるけど楽しくないかと言われると、それは決してそうではないと思った。
「まあ、なんとか楽しくやれてるよ。やっぱ慣れかな。慣れれば楽しい」
「ふーん、慣れ——ねぇ……慣れってのも案外怖えーモンだぞ。今まで普通じゃなかったものがある日いきなり当たり前のものになっちまうってことだからな……でもまあ、なんだって最初はそんなモンだよな。オレだって去年の今くらいにやっと通学路を把握できるようになったし、誰だって最初はそうやっていろいろ考えながら身体に染み込ませていくんだろうよ」
思えば、もう随分と慣れてしまった怪異だとか魔術だとかってモノも、僕はすんなりと受け入れてしまっているが、本来なら常人には知る由もない話だったはずだ。
そういう意味では慣れというものも恐ろしいかもしれない。だが認識してしまった以上慣れないわけにはいかないのが、人間というものじゃないだろうか。
木の机に付いた模様だとか、自分の部屋の匂いといった、そういう普段我々が確実に知覚しているものを覚えていないのには、我々の世界に対する認識に、慣れという歪みが介在しているからなのではと感じる。
謂わばこれは効率化だ。人間いちいち小さなことを気にし続けては途轍もない疲労が脳にかかる。だからこうした方が楽だからという理由で、人間は慣れという機能を持って生まれたのかもしれない。
「でも、全部が全部慣れたってわけじゃないよ。まだ足りないところはたくさんあるし、一度出来たことでも、繰り返しできなきゃ身についたとはいえないしね」
「でもよー、繰り返しって飽きてこねーか? オレは反復練習とか大嫌いなんよ。作業ゲー感あって達成感が無くなるからな」
花岡の言うことはよくわかる。慣れというのはどこかで弛れになるものだ。全てがパターン化された日々の生活を惰性で過ごしていくと、どこかで刺激が欲しくなってしまう。その結果自らの身を滅ぼす事態を招いてしまうことは僕にもよくわかることだった。
「だからこそ日々の息抜きに遊びにいくということは大切なんだと僕は思う。過度に高望みした行いをせず、気楽に、自分ができる範囲の息抜きこそが日々を生き抜くコツなんじゃないかな」
例えば今日のように。
やっていることはただ肉を焼いて水遊びしているだけの行為だ。でもそれは夏休み、友達と行うことによって大きな思い出になるほどの出来事となる。
本来なんともない行為にも特別感を生み出せる。それが夏の海の魔法ともいうべきムードなのだろうか。
「おまえの言ってることはよくわからねーよ。まあ、ここはもう戻ろうぜ。オレも肉焼かなきゃいかんしよ」
その言葉を合図に僕らは立ち上がり、テントのもとへ駆けていった。
それからも僕らは泳ぎ、焼いて、食べて、楽しんだ。
そうして過ごしていると、気付けば日が落ちようとしていた。
片付けを済ませて、僕らはバス停で待機していた。あまり慣れないところのバス停は、バスの来るタイミングを把握できてないので予想以上に多く待たされた。
バスの到着時間は、時刻表より少し早かった。整理券を取って、座席に着く。
なんとなくで、僕はその手を広げて整理券を注視してみた。そこには黒塗りの模様や数字が刻まれている。
当たり前のように手に取っているこの整理券も、一つ一つの模様や数字に意味はあるのだろうが、僕らはそれを気にせずいても特に支障はない。
今朝も通った工事中の建物がもとはなんだったのかを覚えてなくても、特に支障はない。
そう、この世の中には気にしなくて良いものが沢山あるのだ。今見てるこの景色も、どこが誰の家で、どこが何の店なのかなんていちいち覚えて生きる必要はない。
意識を向けるということはそれだけで疲れる行為なのだから。
もっといえば、今こうして考えていることそれ自体すら、しなくてもいいどうでもいいことだったりする。
普段の勉強など目的を持って必要とされて考える行為ではなく、ただなんとなくで気になったことに考えさせ『られる』ほどの強制力はない。でも確かに僕らはそういうことを考えようとする時がある。
そんなことを考えていたらバスが駅に到着したようだ。僕らはそれぞれ別れの言葉を告げ、それぞれの家方向へのバスに乗る。
これは僕らの夏休み生活のほんの一日の断片である。だがそこには意義があり、意味があった。それが後で思い出せなくなるようなもので詰まっていたとしても。