#1 第2節
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葉桜が咲き、新学期が始まってきたことを実感し始めた高校二年の春。僕の人生に奇妙な一ページが刻まれようとしていた。
渡り廊下を渡って北館2階。薄暗い照明に照らされたボロボロの扉の上に、ひとつの文字が載っていた。
「文化研究部」
江峰東高校に存在する全く得体の知れない部活。部員も不明。顧問の先生がいるかどうかも不明。なのに確かに存在していると言われている。
そして今、僕の目の前に文化研究部の扉がある。なんとも近寄りがたい雰囲気を醸し出すこの扉を、僕は開けなければいけない。
曰く、僕が巻き込まれた『事件』は、警察や政府ではなく彼ら───文化研究部の力が必要ということらしい。
がちり、とドアノブを捻る。その瞬間に、自分が日常と非日常の狭間に立っていることを確信した。
恐る恐る扉を開ける。扉の先を確認するより先に、
「おや、文研部の入部希望者かい?」
と、凛々しい女性の声が聞こえた。視界の右奥に声の主と思われる女がいた。
オフィスチェアに腰を掛けながら書類を片手にコーヒーを飲む姿は、白いスーツも相まって若くして成功した女社長のようだった。
あの雰囲気から見て、彼女が文化研究部の顧問だろうか。
「いえ、そういうわけではないんですけど」
僕がそう言い終わる直前に、
「ええ、彼が僕の紹介した『事件』の被害者です。」
と、左の椅子に座っていた男が立ち上がって言った。
「名前は櫛見幸斗。先日ご友人と帰宅している際に事件に巻き込まれた。そうですね?」
芝居掛かった物言いに戸惑いながらも僕は頷いた。
「そしてご友人は現在入院。本人は大きな怪我こそないものの、それ以外の部分で異常が発生していると言ったところでしょうか……」
饒舌な喋りであったが、確かに言ってることは本当だった。
その男は顎に拳を乗せて考え込んでいたが、次の瞬間ハッとしてこちらを向いた。
「あっと失礼。申し遅れました。ワタシは和泉荒志郎というものです。そしてあの方は我々文化研究部の顧問、八敷意先生でございます」
大儀そうな素振りでコーヒーを持っていた手をあげるスーツの女性。彼女が八敷意先生だろう。
「では本題に入りましょう。聞かせてください。貴方が、何に出逢ったのかを」
「え、えっと……」
和泉荒志郎の深く吸い込まれるような視線に口が澱んだ。一度咳払いをして事の仔細を話し始めた。
それは今にも雨が降りそうな曇天の日のこと。僕はクラスの友人、花岡と二人で下校していた。なだらかな下り坂に差し掛かったとき、その事件は起きた。
けたたましい轟音と共に僕らは自転車から離れ宙に浮き、気づけば病院にいた。
あとから話を聞くに、僕らの自転車はあのとき急に『折れ曲がり』、身を投げ出されたというのだ。
幸い僕は大きな怪我はなかったが、少しだけ妙に引っかかることがある。それはあの出来事の直前に、奇妙なものを見た気がするのだ。
坂道に入る手前の道脇をふと見ると、淡い緑の髪に、深い翠のツノを持った男とも女とも取れぬ人の姿が目に映った。こちらを見つめていて。一瞬目が合ったような気がした。ひょっとしたら周りの植木がそのように見えていただけなのかもしれない。
一部始終を話し終えると、聞いていた一同が唸り声を上げた。
「もしかしたらその人物が今回の事件の犯人かもしれませんよ。それで、他に詳しい情報はあるんですか?」
荒志郎がさらに質問を続けるが、生憎これ以上の情報は思い出せなかった。僕は「いえ」とだけ呟いてそのまま黙り込んだ。しばらくして八敷先生が声を上げた。
「ふむ……如何にもな情報だが、ただその場にいたというだけではな。私としては、仮に犯人だったとして何故その場にいたのかが引っ掛かる。それにまだ何故彼らを狙ったのかという動機も掴めない。まだ犯人を決めるには情報が足りないだろう」
八敷先生の言う通り、まだ情報が足りない。そもそもあの緑色の人物が本当にいたかどうかの確証もついていない。必死にあの時の状況を思い出そうとする僕に、荒志郎はまた質問を始めた。
「では別の視点でいきましょう。つい最近で、貴方の身の回りに、急に人が変わったり妙な行動をする人はいませんでしたか?」
「……特に思いつきません。」
「そうですか……では、最近何か強い願望を持ったりは?」
「そういうのもあまり」
「ふむ、それは困りましたねぇ。身近な変化にヒントがあればとも思いましたが」
「身近な変化……ですか」
身の回りとはいかないが変化は無いわけではなかった。学年が変わったという、学生なら極々当たり前の話ではあるが。
「とりあえず今日はここまでだ。こちらでも調査は進めておこう。連絡先も教えるから、また情報があったら声をかけてくれ。」