#8 第2節
私は長い間、公園で空を眺めていた。
それはとても静かな夕暮れ時のことだ。
ただぼんやりと、雲が動くのを目線で追う。首が動きそうになったところで目線を戻し、次の雲をまた同じように目線で追うことを繰り返していた。
私たちには雲はゆっくり動いているように見えるけれど、実際はもっと速く動いているらしい。
ゆったりしたイメージの雲でさえそんなに速く動くのであれば、今ここで空を眺めている私はもっとナマケモノに見えてしまうだろう。
私は今日、学校をサボって一日中この公園で空を眺めていた。
母親にバレないように普段通りの学校の支度をしてそのままの服装で来たけど、幸いここは人通りが少ない。だから知り合いに見られることはなかったし、仮に今友達の親に見られても下校中と言い張ればどうにかなるだろう。
そうして公園の時計が六時半を指したとき、私はそろそろ帰ろうかとベンチから立ち上がった。
視線を空から水平に戻す。その時になるまで、私は自分以外の来訪者に気づかなかった。
アイスを片手に会話をする男女三人組。しかしよく見るとその服装は私と同じ江峰東高校の制服だった。
なんとかして気付かれず立ち去ろうと腰を屈めながて忍び足をしたそのとき、三人組の中にいた眼鏡の男が声を発した。
「あれ……浅田さんじゃあないですか?」
その声に近くにいた女性が反応する。
「あ、ホントだ!」
————あの人たちは、私の名前を知っている⁈
私にあのような男たちと面識はない。だがあの男の口ぶりだと、私を探しているかのようだった。
まずい、と慌てて足を速めるがもう一人の癖毛の男に呼び止められてしまった。
「すみません、もしかして浅田菜乃花さん?」
私はその問いに、沈黙で答えた。緊張を一切解かず、頑なに答えようとしない私の態度に三人組は少し困った顔をしながらも、その中の一人の女性が声をかけた。
「そんなに怖がらないでって。ウチは二年の真風屋美佳。私たちは別に先生にサボったことを告げ口するために探してたワケじゃないんだよ! 学校でキミの友達の望未ちゃんが、昨日の夜街中でキミを見かけたっていうから、心配で様子を見に来たんだよ!」
「私が……昨日の夜……? どこにも出掛けてはいないんですけど……」
あちらの女性——美佳さんは昨日の夜に私が街中を歩いていたと言うが、生憎そのような記憶は私にはなかった。でも……望未がそう言っていたというのなら、それは適当な嘘とは思えないなと感じた。
「もしかして、『夢遊病』というやつじゃあないですか、これ?」
「たしかに、その線はあるわね」
『夢遊病』……確か寝てる間に体が勝手に動いて彷徨いてしまうという症状だ。
もしかしたら今朝のように目覚めがあまり良くない日が続くのは、そういったものが原因なのだろうか。
「だったとしたら、なんかそれはそれで拍子抜けかも……」
癖毛の男が少し不可解な物言いをする。あの言い方はもっと酷いなにかを想定していたような口ぶりだった。
「まだそうと決まったワケじゃないでしょ! それにこのことが手がかりになるかもしれないし……」
なにやら不穏な会話をしている二人だったが、眼鏡の男が制止した。
「まあまあ、彼女の前でそういう話はやめましょう。————申し遅れました。ワタシの名前は和泉荒志郎と言います。今日はいくつか質問があって貴女を訪ねに来ました」
「質問……ですか」
私は依然険しい表情で男を見つめる。
「はい、まずは単純な質問です。どうして今日は学校を休んでこんなところに来ているのですか?」
「本当に誰にも言いませんか」
「少なくとも、学校中で噂されるなんてことが起きませんよ」
「ならいいです」
私は心のスイッチを切り替えた。今まで張り詰めていた警戒心を解き、穏やかな笑顔を取り繕って話を続けた。
「今日私が学校に行かなかったのは特別理由があってのことではないんです。ただなんとなく、イヤになったっていうか……朝からちょっと気分が悪くて……五月病ってヤツですかね。部活もやる気が出なくって」
「ちょっとその気持ちはわかりますね」
眼鏡の男は砕けた表情でそう言った。その言葉に軽い笑みを漏らしながら私は話を続けた。
「それで今日一日中、この公園で空を眺めてたんです。そうしてると、ですね……私ってなんのために生きてるのかなぁって考えたりして……あはは、おかしいですよね」
「ふむ……」
と唸る眼鏡の男。
表面上は笑顔を取り繕っているつもりだったが、実際には今にも泣き出しそうな酷い表情になっていたと思う。
そんな私の様子に気づいたのか、眼鏡の男の後ろから癖毛の男が出てきて、穏やかな表情で応えた。
「でも、そう思うこと僕もあるよ。でもね、やっぱその答えは見つからないと思うんだ。だからこそ、僕らは日々を一生懸命に生きて、そうして最期にそれを見つけることができると思う。どうかな?」
私はしばらく沈黙して応えた。
「…………わかりません。その言葉で、私をどうしたいというんですか」
「あーいやいや、別にサボってないで学校行けとかそういうことを言いたいんじゃないんだ。日々を一生懸命にって言っても毎日それじゃ疲れるだろ? だからたまに立ち止まって空を眺める時があってもいいかもしれないなって」
「じゃあ——」
——なにも問題はないじゃないか。
そう言おうとする私を遮って癖毛の男は話を続けた。
「だけど、それは次に進むための休憩でなくちゃならない。君は、このあとの道を考えているのかい、菜乃花さん?」
「それは——」
その問いに私は答えられない。
多分私はこのまま明日も同じようにこの公園で空を眺めるつもりでいただろう。
「わかり、ません……今の私が何に悩んでいて、何をしようとしてるかなんて……」
高校に入ってからの一ヶ月間、部活などの学校生活において特に不満や悩むところはなかった。でもなんだか今は妙に不安を覚えている。
「今のは少し辛辣な物言いでしたよ、幸斗さん。別に今すぐに見つける必要はないんです。目の前のことに集中して、その中で自分の道を決めればいいんです。今日休んだから、明日から頑張ろう。それでいいじゃないですか」
癖毛の男——幸斗さんは軽い苦笑いをしながら「それもそうだ」とうなづいた。
「それではもう一つ質問をさせてください。貴女は、月に対してどのような印象を持っていますか————?」
突拍子もない質問に私は目を丸くした。
「えっ……と、それはどういう意味かよくわからないですけど……あまり好きではないですね」
「ほう? それは何故です?」
「何故って……難しいことを聞きますね。なんでしょう、夜空の中にぽつんと浮かんでいるのが目玉のように見えて怖いと思うときがあるというか……笑っちゃいますよね、こんな話」
「いえいえ。そんなことないですよ。多忙な高校生活ですから、ちょっとしたものが途轍もなく恐ろしいものに見えることだってあるはずです」
荒志郎さんの発言に美佳さんが相槌を挟んだ。
「そうよそうよ! 幸斗なんてね、部室に落ちてたゴミを虫と勘違いして机の角に肘ぶつけちゃったんだから!」
「ちょまっ……! 今言う必要ないだろ!」
幸斗さんの抗議に触発され、二人は取っ組み合いになってしまった。
呆れた顔を浮かべる私に荒志郎さんは優しい笑みで対応した。
「あれはいつものことですので、あんまり気にしないでください。……もう少しだけ質問を続けますね。これが最後の質問ですので、ええ。その……貴女の友人である望未さんについてですが、何か他の人とは違ったところはありませんか?」
私は少しの間俯いて考えた。
「違うところというのがどのようなものを指すのかはわかりませんけど……昔、何もないところを指差して何かがいるなんてことを言ってたっけ」
「そうですか、ありがとうございます。これで質問は終わりです。ワタシたちは帰りますので。ではでは、失礼しました」
そういって、幸斗さんと美佳さんを連れて三人は公園を立ち去った。
彼らが視界から消えたあと、私は家に帰る前に、もう一度だけ空を見上げた。
前回と同じように、音もなく、ただ黄昏の空に浮かぶ雲を見つめる。
さっきまで先輩たちといた時間とは打って変わって空虚な静寂が流れ、心に穴が空いた錯覚を感じた。
先程の私は、この孤独感に気づいていなかった。彼らと出逢い、話し合ったことに少しだけ心の穴が埋まったような安堵の感情を憶えたようだ。それがまた彼らと別れたことで元に戻り、それが一層私の心の穴を際立たせているようだった。
さて、これから私はどうしようか——
帰路にて、私は考える。
その答えは見つからない。ただなんとなく、これからのことが不安だということは感じた。
でもそれはなんの未来?
ゴールデンウィークは部活にうち続けて、苦しくもあったが充実した日々だった。
多分私が危惧した未来とは、その先のことなんだと思う。
目の前のことに熱中している日々が終わるとき、私はどうなってしまうのだろうか。
多分これはその予行演習なのだ。『燃え尽き症候群』という言葉がある。その大きさは連休中と陸上を始めてからの十数年とで変わってくるが、本質は変わらないのだろう。
これ以上やることができないものを直視したときに訪れる、無気力状態からなる焦燥感。
それは死神のように私の後ろに付き纏う。この死神に対し私はなす術がない。ただいずれくる鎌が振り下ろされる時を待つのみだ。
視線を水平に戻す。
さあ、帰ろう。
そう意気込んで私は夕日を背にして歩いていった。