#7 第2節
美佳は自身の魔術を用いて六階を調査していた。
「虚空よ」
美佳の呪文が響く。
彼女の持つ五大思想の魔術は地、水、火、風、空の要素を用いて術式を組み立てる魔術だ。しかしこれらの要素は文字通りの現象を示すとは限らない。
それぞれの要素が持つ様々な性質を術式に組み込み、様々な効果を引き出すことができる。
例えば『風』なら拡散の効果を、『水』であれば流動性などを付与することができる。
そして今彼女が行使しているのは『空』の魔術。そこから引き出した効果は『包摂』、即ちこの場にあるすべての存在の認知を可能にさせた。
空間一帯の魔力が共鳴しあう。大気に漂う魔力が共振し、そこから得られる情報が美佳に伝わってくる。
「やっぱりここにもいないか」
五階でも同様に同じことをしたが菜乃花の姿はなかった。
無駄足だったと踵を返し、この建物から出ようとしたその時、下から魔力の揺らぎを感じ取った。
「——ッ⁈」
廃ビルのある一点にエネルギーが収束していく感覚。その階には荒志郎がいるはずだ。
であれば、すでに戦闘が始まっている可能性が高い。
あれほどのエネルギー量であれば、荒志郎であっても苦戦は免れないだろう。
今すぐ助力に向かわなければ……!
そう思うと美佳は外廊下の塀から身を乗り出した。
「風よ」
美佳の口から呪言が漏れ出でる。その言葉により美佳は自らの体に気流を纏わせてプロテクターを作りあげたのだ。
階段から向かっていては時間がかかる。それにこちらのルートであれば相手の視覚外から不意打ちを掛けることができる。
「ふーっ」
美佳は深呼吸をし、遠い地面を見つめる。ここから二階下……四階に奴はいるだろう。
塀から足を外して落下を開始する。頭部を地面の方へ向けて右腕を前方に翳し、左手を添える。
「空想基盤仮設・空の型————!」
美佳が呪文を唱える。
美佳の右手から魔法陣が浮かび上がり、魔力が一点にかき集められる。
「是なるは業用虚空蔵菩薩の恩恵、即ち穢れを祓い業を断つ!」
美佳が詠唱を重ねる。魔術は詠唱の長さによって、その強度を増すことができる。
言葉によるイメージの強化は魔術師の精神に自己暗示をもたらし、より高度な魔術を可能にさせるのだ。
右手に込められた魔力はまるで装填された砲弾のようで、このままその魔力を解放すれば、戦車の榴弾にも匹敵するほどの破壊力になるだろう。
だがここにさらなる詠唱を重ねる。
「仮想天外領域、接続……!」
美佳が扱う空属性の魔術に紐付けられた要素の一つに虚空蔵菩薩がある。この虚空蔵菩薩は明けの明星を化身として持ち、その要素から、さらに金星から来たとされるサナト・クマーラのエッセンスを引き出し、術式に組み込むことで魔術の規模を一時的に増大させることを可能にした。
美佳は落下を続けながら、狙いを定める。
「視えた……」
四階の外廊下で幽霊と対峙する荒志郎を見つけた。彼の姿はあまり芳しくない。
今だ、と美佳が構えた腕に力を込める。
その瞬間、美佳の右腕が魔力によって紫色に煌めき出した。
魔力が高まるに連れて腕に帯びる紫色の光は濃く染まっていき、金色の光の粒が無数に溢れ出していく————。
「黎明告げる太白星の閃光————ッ!」
翳した右手をピストルを構えるような形にし、そこから金色の光が細長く飛び出した。
極小の光の線は幽霊の手前で一際大きく輝き、その直後周囲は光に包まれた。
——其は、あらゆる不浄を清める明星の光。穢れた魔すら包み込む全なる虚空——。
幽霊を中心に球体状に広がった美佳の魔術は、一瞬の間だけ世界をモノクロに感じさせるほどの煌めきを放ったあと、何事もなかったかのように消えていった。
「今……のは?」
目を閉じていた荒志郎が次に見た光景はなんの変化もない廃ビルの外廊下だった。
壁や床に破損はなく、さっきまでそこにいた幽霊の消失だけが目を閉じる前との唯一の変化であった。
「流土鞭ッ!」
あらかじめ風のプロテクターをつけていた美佳は先程の魔術を発動したのち、体を半回転させて体勢を整えていた。
そしてそのまま土属性と水属性の魔術の合わせ技により、腕から出た魔術の鞭を駆使してワイヤーアクションさながらの動きで荒志郎のもとへ降り立った。
「大丈夫?」
美佳が声をかける。
「ええ、私は大丈夫です。それよりも貴女のその魔術……相当の負荷が掛かっているはずでは?」
美佳は見かけこそ平気な様子でいたが、身体に掛かる負荷は尋常なものではなかった。だがそれは彼女だけではない。荒志郎も先程の防御による情報処理で脳に大きな負荷が掛かっていた。
結果としてどちらも無傷の勝利ではあるのだが、圧勝とは言いがたい疲労感がのしかかっていた。
「私は少し休めば大丈夫。とにかくここは戻りましょ。八敷先生が待ってるわ」
荒志郎が壁伝いで立ち上がる。美佳が肩を貸し、ゆっくりと歩みを進めていく。
するとどこからか、たったったっ、と駆け足でこちらに向かってくる音がした。
その音が鳴る方へ二人が視線を向けると、階段から櫛見幸斗が現れた。
「二人とも、大丈夫か⁈」
幸斗が声をかける。
「遅いわよ幸斗! もう敵はやっつけちゃったっての!」
美佳が声を上げる。対して荒志郎ははあ、とため息を吐き、
「やれやれです」
とだけ呟いた。
「上の方からすっごい光が見えて、慌てて走って来たんだよ。そしたら二人ともそんなに疲れ切っててさ。まあ助けにいけなかった代わりじゃないけど、二人とも肩貸すよ。戻ったら休憩がてらアイスでも買おう」
「おっ、言ったなー? もちろんアンタの奢りよね?」
美佳がワニのように食いついた。あんなに疲れていたのが嘘だったかのように彼女の顔には笑みが溢れていた。
「まあ、今回はそれでいいよ。僕は何もできなかったからさ、それくらいはしないとな」
「よっしゃ! そうと決まればさっさと戻るわよ! さー、アイスー♪ アイスー♪」
美佳の陽気な歌声とともに僕らは廃ビルを後にした。
「思わぬ遭遇があったな」
廃ビルの屋上から飛び降りてそのまま直立状態で着地し、開口一番そのような言葉を言ったのは八敷先生だった。
「少しくらいは加勢してくれても良かったんじゃないですか」
美佳が不平な様子で文句を垂れる。
「すまない、これは私も予想外だった。連中は通常あそこまでの知性と能力を持たないはずだがな……何かしらの外的要因があるのだろう」
「その幽霊についてですが、ワタシから一つお伝えしたいことが」
荒志郎が声を上げた。
「先程の戦闘であの幽霊たちの情報を読み取りました。そしたらその中に菜乃花さんの精神も入っていたんです」
「そうか。大した成果だ、荒志郎。これで少なくともあの場所が彼女に何かしらの影響を与えている可能性が見えた。
ただ問題は……あの幽霊がその元凶ではないだろうということだ」
「どうしてそう思うんです?」
幸斗が尋ねる。八敷先生は顎に指を当てながら質問に答えた。
「幽霊が他人に取り憑くケースはままある。だがそれは取り憑かれた本人とセットでいなければ成立しない。だがあそこにいたのは独立していた。であればあの幽霊は浅田に何かした訳ではないのだろう。むしろ、彼奴こそもっと上位の怪異によって存在を捻じ曲げられた可能性がある」
「じゃあ、あの強大な力はソイツのせいってコト?」
美佳も続けて質問をした。
「おそらくはな。願わくばもっと調査を続けたいところだが……二人とも疲れているだろう。今日はここで解散だ。しっかり英気を養って明日も来るように」
そう告げて八敷先生は自身の車に乗って去っていった。