第六章 世界初の労働者の国
『ソビエト建国史:労働者国家の歩み』は、分厚く、装丁も堂々たるものだった。私は湯を入れたカップを傍らに置き、静かにそのページを開いた。重すぎて腰が抜けるかと思ったぐらいだ。多分凶器として使えるだろう
そこには、まるで聖書のような語り口で、ひとつの革命の物語が綴られていた。
──一九一七年。ツァーリの圧政と資本家の搾取に苦しむロシア人民は、ついに立ち上がった。
長年の苦悩と犠牲の果てに、ペトログラードの街で労働者と兵士たちが手を取り合い、「ソビエト(評議会)」を結成した。
「ソビエト」という言葉は、私にとってまだ馴染みの薄い響きだったが、その定義はこの本に明快に記されている──それは、労働者自身による、労働者のための、直接民主主義機関、だという。
なんと素晴らしい響きだろう。──まあ、紙の上では何とでも言えるが。
ページをめくるごとに、私は思わず唸った。民衆が立ち上がってツァーリ体制を打倒したこと、ソビエトと臨時政府の二重権力になり迷走した共和国。そして10月革命によるソビエトの勝利
これはまさしく、私が描いた未来像が、ついに現実のものとなった瞬間ではないか。──ただし、演出過剰なのはお国柄か?
資本の支配は終わりを告げ、貴族たちは打ち倒され、労働者が工場を、兵士が兵営を掌握し、農民が土地を分かち合ったとある。
私はページの端を握る指に力がこもるのを感じた。なんと壮麗な、そして誇り高い革命だろう。
──革命は決して血に飢えた暴徒のそれではなかった。
──それは、歴史の法則に従って進行した、意志ある人民の大行進だったのだ、と記されていた。
転生前の私は、あくまで予見者であり、理論家であって、未来に起こるであろう革命の形までは描き切れていなかったのだ。
だが、ここにそれがある。
国家が倒れ、民衆が立ち上がり、新たな秩序が築かれた。
そして、その秩序の名は──ソビエト。
私の理論が“レーニン”という人物によって継承され、拡張され、ついにこの巨大な社会実験が始まったということらしい。
“マルクス=レーニン主義”という言葉が再び紙面に躍るたび、私は不思議な気持ちになった。
違和感と、誇りと、少しのくすぐったさ。
私の名がこうして未来で生きている。それも、人々の理想の中で。
私は湯の冷めたカップを手に取り、もう一度、その言葉を噛みしめるようにページをなぞった。
──世界初の、労働者による国家。
それは、私が夢見たものだった。いや、それ以上だったのかもしれない。
私はワクワクしながら先を読み進めた。
ページの向こうに現れたのは、革命後の新国家建設の物語だった。
──内戦の嵐を越え、赤軍は白軍を打ち破り、帝国主義者たちの干渉を退けた。
「労働者と兵士と農民が団結し、祖国を守り抜いた」と、本は誇らしげに記す。
国は荒廃していた。工場は止まり、鉄道は分断され、都市は飢えに苦しんでいた。
だが、ソビエトはあきらめなかった。
すべての人民が再建に立ち上がり、レンガを積み、鋤を持ち、印刷機を動かし、未来を描いた。
レーニンの描いた新経済政策──“NEP”──は、混乱の中にあっても柔軟に適応し、人民の生活を立て直したと記されていた。
「我らが党は、労働者の血と汗の上に立つ」との一文には、どこか演説調の熱さが込められている。
レーニンが志半ばで倒れた後はスターリンによる強固な指導で社会主義化がすすめられている。
農村の電化、識字率の向上、女性の参政権、民族の自治。
この本は、こういう言葉で結ばれていた。
「我々は今も今後も永久に労働者の祖国である」
私は思わずページを閉じ、表紙を見つめた。
『ソビエト建国史』──ここに綴られた物語は、果たしてどこまで真実なのか。
──というか、これ脚色しすぎて映画化いけるんじゃないか?
だが今の私は、それを検証する手段を持たない。──いや、正確には“検証する勇気”を持ち合わせていないのかもしれない。
ならば、まずは信じてみよう。この理想の重みを。
──どうせ明日にはまた現実の重みがやってくるのだし。
そのとき、控えめなノックの音がして、住み込みの世話係が顔をのぞかせた。
「先生、お伝えし忘れておりました。大学から、明日から講義を再開するようにとの連絡が届いております。」
ああ、現実って、いつもそういうタイミングで来るよね。