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名前も知らない親友

「どうぞ」と返す間もなく、ドアは静かに開いた。


入ってきたのは、やけに整ったスーツ姿の男と、付き添うような女性だった。


男は柔らかい笑みを浮かべ、親しげに言う。


「やあ、元気そうで安心したよ。まったく、君には驚かされてばかりだ」


私はその顔に見覚えがない。だが、彼の口調はどう見ても“旧知の友”に向けられたものだった。


「君は……ニコライか?」


 ロシア人の名など、イワンかニコライくらいしか思い浮かばない。どうせなら、当たりやすい方を選ぶべきだ。


 幸いにも、男の顔に浮かんだのは笑みだった。


「その通りだよ、カール。事故に遭ったと聞いて慌てて見舞いに来たんだが、見た様子特に大きなけがではなさそうだな。」


――さてはこの男、私のことを知っている。そして、私は彼のことをまったく知らない。が、とりあえずは相手の名前を知ることができた。ニコライ・何某は見た感じだと長年の親友のようだ


男が言った。「そうそう、アンナも心配していてね」


隣の女性が軽く会釈する。若く、聡明そうな女性だった。


「アンナというのは……君の奥方かい?」


私がそう尋ねると、彼は目を丸くし、そしてすぐに吹き出した。


「おいおい、何を言ってるんだ。君が紹介してくれたんじゃないか、アンナを


私は男の情報を得るために必死に言葉をつないでいく。見た感じ彼の年齢は40代、私もそれくらいの年齢だ。相手の親しみの込め方をみても学生時代からの友人といったところが適切だろうか?


「そういえば君とも長い付き合いになるな。」


「ウイーン大学で出会ってもう20数年も過ぎた。」


……ウィーン大学。


その言葉に、私は小さく目を見開いた。


なるほど、ウィーン大学での知己ということならば、ドイツ語が通じてもおかしくはない。


試しに、私はドイツ語で問いかけてみた。


「Und wie geht es dir eigentlich, mein Freund?(それで、君の調子はどうだい?)」


彼は一瞬、驚いたように目を見開き、周囲を気にするように視線を走らせた。


「……カール、頼む。今ここでドイツ語はやめてくれ」


「なぜだね?」


「今この国では、ドイツ語を話しているだけで“スパイ容疑”がかけられかねない。ましてや病室で、密室で、だ」


私は口をつぐんだ。


“ドイツ語=反革命”という公式が、この国には存在しているらしい。


なるほど、ここはそういう国だ。


「まあ、見ての通りだよ。元気にしてる……と言いたいところだが、いろいろな“噂”が飛び交っていてね」


「噂?」


「うん、ほら、最近は“誰が敵か”を決めるのに根拠なんていらない時代だからさ」


彼は苦笑しながら、軽口のように言った。


「まあでも、コーバも忙しいだろうし、私のことなんて忘れてるかもな。……それに、まだ私は党員だからね。ちゃんと信じてる。体制も、理想も」


アンナがちらりと彼を見た。

私にはコーバというのが何なのかがさっぱりわからない。人の名前だということは想像できるが何かこの男との間にトラブルでもあったんだろうか?


その眼差しには、心配と、何かを飲み込むような静けさがあった。


彼は私を見て、ふと目を細めた。


「君も早く結婚すべきだったな。こういういざというときに奥方がいないと、大変だろう?」


……まさかその台詞を、私が言われる側になるとは。


私は曖昧に笑ってごまかしながら、心の中で静かに突っ込んだ。


――九十年前に、ちゃんと結婚しているんだがな。


「なかなかね、いい人がいなくて」


そう言うと、彼は呆れたように笑った。


「まったく、君らしくもないな。君がアンナを紹介してくれたときは、もっと肝が据わっていたぞ」


アンナは小さく微笑んだ。


「そろそろお暇するよ、カール。また様子を見に来る」


彼はそう言って立ち上がり、アンナもそれに続いた。


「お身体を大事に。無理なさらないでくださいね」


私はふたりを見送りながら、ただ静かにうなずいた。

結局ニコライの苗字はわからなかったが今後わかるだろう。

何事も長期戦だ。


病室の扉が閉まる音は、意外にも軽やかだった。


それから一週間が経ち、私はようやく退院を許された。


だが、いざ病院の玄関先まで来てみると、ふと立ち止まってしまった。

……さて、どこに帰ればいいのだ?


私はこの世界の“カール・ブロンシュテイン”でありながら、その男の生活圏については何ひとつ知らない。


私は仕方なく、受付の看護師に声をかけた。


「すみません、私の……その、住所というか、帰る家の場所を教えてもらえませんか?」


看護師は一瞬、動きを止めた。そして、プロらしい笑顔を浮かべたまま、カルテのページをめくる。


「……ご自身でお忘れになったんですか?」


「ええ、まあ……頭を打ったもので。数ページばかり飛んでしまいまして」


看護師は「それにしても」と呟きながら、紙の端を指でトントンと叩いた。


「カール・イヴァノヴィッチ・ブロンシュテイン様。ご住所は、エンゲルス通り六番地……」


エンゲルス通り……。


思わず顔が引きつりそうになるのを抑えながら、紙にメモしてもらい、それをポケットに突っ込んだ。


――エンゲルス、お前もずいぶん出世したな。


「本当に、お大事になさってくださいね」


「……ありがとう。なるべく、また運ばれてこないようにするよ」


そう言って私は、“新しい世界”へと一歩を踏み出した。

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