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4 好きな文学について1【ミステリ以外の文学作品について】

 ミステリ小説については、新生ミステリ研究会に所属していることもあって、ウルトラマン級の会員が並み居るの手前、エッセイを書くことは、それなりにハードルが高いので、今日はミステリ以外の一般文芸を中心に語り尽くしたいと思います。


 僕がミステリ以外で、一番、深く感銘を受けた名作は……。


 トルストイ『戦争と平和』


 ……です。フランスのナポレオンがロシアに侵攻し、クトゥーゾフ将軍がこれに対抗する史実の戦争を描いた歴史小説です。しかし物語は、ロストフ家のナターシャなどを中心に展開する恋愛小説でもあり、ロシア民族の歴史運動を描かんとする、壮絶な大河ドラマともなっていて、客観的な描写にまつわる文章力は勿論のこと、思想性、物語性ともに桁外れな傑作中の傑作です。

 僕がとにかく、人生で一番感動した作品はこのトルストイの『戦争と平和』であることは間違いありません。



 次にご紹介するのは、ドストエフスキーの『罪と罰』です。ドストエフスキーというと『カラマーゾフの兄弟』が一番傑作というイメージが強いのですが、あれは思想深いリーガルミステリとして楽しめる一方、キリスト教の問題もあって、僕には理解が追いつかなかったという事実もあり、今後の人生の課題となっています。それと比べると『罪と罰』は、とても夢中になって読ませていただいた作品です。ひとりの青年が、罪深い老婆を殺害する。それを徹底的な心理描写と、さまざまな哲学性、問いを含ませて展開する犯罪心理小説です。内容の深さは勿論ですが、単純にストーリー展開が秀逸で、1ページから読者の心をその心理描写と一体化させてしまい、最後の1ページまで離さないという物語的な面白さをもっています。娼婦ソーニャとの出会いが、彼になにを与えたのか、今の世にも時めく作品です。


 三つ目は、ゾラの『居酒屋』です。ゾラといえばセザンヌの友人というイメージが強いですが、自然主義小説の大家でもあります。ゾラの描写の丁寧さは圧倒的で、美術館を訪れるシーンなども、まるで自分がその場にいるかのように思えるほど、感覚の鮮明さを感じさせます。それにフランス人らしい、官能的かつ優美な文で、非常に芳醇な感じが致します。洗濯女の主人公は、元の悪い夫と別れて、新しい旦那と幸せな生活をスタートさせます。ところが本作は後半に移ると、悲惨なシーンの連続となり、胸を抉り続けます。人間の悲壮とは何なのか。そしてこの夫婦の間に生まれた少女こそ、『ナナ』の主人公、ナナなのです。


 四つ目の作品は、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』です。童話がここまでシュールなものであって良いのか、と驚愕する内容ですが、これは僕も童話作家を目指している以上、学ばなければならないシュール表現の極致でもあります。ディズニーアニメでも特にお洒落なのは、あの『不思議の国のアリス』のアリスでありましょう。シュールなものというのは、大方ダリ的になってしまうものです。このようにお洒落で可愛いシュールというのは本当に芸術点高しです。


 五つ目の作品は、ディケンズの『オリヴァーツイスト』です。オリヴァーという少年が犯罪者のもとでさまざまな体験する話というと、分かりにくくてすみませんが、ディケンズの作品としては、ハッピーなタッチの『クリスマスキャロル』とは異なり、貧民街の、ダークサイドなお話となっております。それでも意味不明なユーモアに溢れていて、「わたしは自分の頭を食べる!」と宣言する紳士が登場してきます。僕は、このイギリス文学の世界観に、シャーロック・ホームズ探偵譚と共に多大な影響を受けております。僕の探偵童話もこのオリヴァーツイストの世界を目指しています。


 六つ目は、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』。小学生の頃、兄の誕生日にプレゼントした本で、そうは言うても小学生のことですから、お金はお小遣いだったわけですが、それでも兄は喜んでいました。SF小説は本当に、ヴェルヌとウェルズとドイルくらいしか読まないので、SF古典三大神を信仰しているみたいなものですね。ヴェルヌはとりわけ科学性が高いSF小説でした。しかし時代が時代なもので、今ではスチームパンクみたいな世界観になってしまっているところがかえって面白いのです。地球の内部は、内部コアとか言われるマグマじゃなくて、実際には冷たくなっていて、そこには地底世界があるというのですから、SF小説の考古学みたいなもので、古き良き科学が発掘されるのは、もはやおつなものなのです。


 七つ目は、コナン・ドイルの『ロストワールド』です。コナン・ドイルといえば、ホームズ探偵譚の作家ですが、チャレンジャー教授のSF小説もまた面白いのです。そして本作は、なんと恐竜ものです。僕が幼き頃というのは、恐竜ブームであったので、僕は恐竜が大好きでした。本作はそんな恐竜を存分に描いたSF小説としては、おそらく最古のものでしょう。ドイルが、ミステリ書きとしてではなく、ストリートテラーとして圧倒的な筆力を持っていたことを示す、貴重な作品です。


 八つ目が、クリシャン・チャンダルの『ペシャーワル急行』です。前に師匠のナツさんが「あらゆる国の文学をお読みなさい」と仰っていたので、インド料理屋でほうれん草のサグカレーとナンとラッシーを食べることにハマっていたこともあって、インド文学に挑戦したのでした。ところがインド文学はほとんど翻訳されていなくて、めこん社の現代インド文学選集しかなかったので、それを何冊か、アマゾンで取り寄せました。はっきり言って、バターカレー食べて、みんなでダンスを踊る『踊るマハラジャ』的な明るい話ではまったくなくて、それはインドの宗教対立が生んだ殺戮と貧困の、壮絶なリアリズム文学であり、読んでいても思わず投げ出したくなるほどの胸掻き乱す迫力をもった社会派作品でした。


 九つ目が、寺山修司の『あゝ荒野』です。この作品ばかりは説明すると、意味を失ってしまいそうで、ただタイトルを挙げるのみにとどめますが、次元の異なる文学です。


 十番目が(十つ目と書いたら、あまりにも馴染みがなくて、嫌だった)夏目漱石の『吾輩は猫である』です。『三四郎』や『こころ』、それと『草枕』などを推したい気持ちもあったのですが、よくよく考えてみると、『吾輩は猫である』は存分に面白い大作であった気がします。単純なコメディと捉えられそうですが、コメディとは、ひとつの風刺表現であり、社会論評小説でもあるこの作品は、猫の愉快なキャラクターの魅力とあいまって、漱石の原点でありながら、とてつもなく面白い小説であると思います。明治時代によく書けたものだなと思います。


 十一番目は、谷崎潤一郎の『細雪』です。生粋の谷崎潤一郎オタクである僕は、正直、谷崎作品はどれも傑作なのだと信じてやまないわけですが、谷崎の後期、古典主義の到達点としては、源氏物語の和文の文章美を、現代文になよびかに再現させたこの作品で決まりだと思います。妙子や雪子、そして幸子の娘さんのことなど、多く語りたいところですが、この芦屋の四姉妹の美しく、悲しい物語については、また別の機会にします。人間の繊細な感情と、上方の生活の営みの、美と悲壮がひしひしと感じられる素晴らしい大河的な文学作品です。謎なのは、洪水のシーンだけ、もろに探偵小説タッチに切り替わっているところです。ちなみに谷崎潤一郎は、短編も存分に面白いので、悪魔主義といわれた初期短編『刺青』や『秘密』あたりから少しずつ読み始めるのがいいですよ。


 十二番目は、志賀直哉の『暗夜行路』です。志賀直哉は、小説の神様と言われ、僕も谷崎潤一郎の次に、はまり込んだ小説家ですが、それは感覚の鮮明な描写が見事であったからだと思います。そして語り部を通すのではなく、見たまま、感じたままがストレートに迫ってくる透明感のある描写力こそ、彼が情景描写の達人と言われている所以なのです。たぶん。志賀直哉の文は、谷崎潤一郎が「簡潔体」と呼ぶ、文章が極端に圧縮された、コーヒーで喩えるなら、カプチーノやエスプレッソレベルの濃度の小説なのです。彼は理知的に自己の問題を突き詰めてゆきます。彼の代表作は「小僧の神様」や「城之崎にて」は勿論のことですが、「池の縁」という日常の素朴な感情を描きだした小説こそ、と思います。


 十二番目は、泉鏡花の『春昼』『春昼後刻』です。泉鏡花といえば、純文学の中でも、怪談作家であり、美しく狂った妖気みなぎる文章と共に、そこには江戸文学の艶やかもみなぎっているというわけで、大変、甘美なものでありますが、その中でも、特に幽玄なのが、この『春昼』という作品です。あまり多くは語りませんが、クライマックスの恐ろしさ、美しさはまさにこの世のものとは思えないものです。有名な『高野聖』よりもずっとこちらの方が傑作だと思います。


 十三番目は、カフカの『変身』です。海外文学を先に、国内文学を後に書こうと思いながら、思いつく順で書いているために、このような混乱した順序となってしまっています。カフカは『城』に何度も挫折していて、結局、この『変身』に落ち着いています。グレゴールがムカデみたいな虫に、ある日、変身してしまうのですが、僕の中では、蠅のイメージになっています。詳しいことは『グレゴールキング殺人事件』という某リレー小説をお読みください。冗談はさておき、僕がこの作品に感じるのは「違和感」と「空虚な存在の悲しさ」といったところです。サルトルの実存主義くらいしかわからないのですが、カフカは実存主義の作家ということなのでしょうか……。


 十四番目は井上靖の『敦煌』です。これは『天平の甍』よりもずっと傑作で、あまりにもドラマティックで見事なので、病院の待合室で、感激して涙を流し、それから、文章をひたすら書写するという苦行にまで発展しました。書写は一章で挫折しました……。物語は、進士に及第せんとして、居眠りのため、試験に落ちた主人公が、ひとりの女奴隷と会う……。これも後半の人間ドラマの素晴らしさは、涙なしには読めないレベルのものでした。


 十五番目は、司馬遼太郎の『燃えよ剣』。司馬遼太郎は『梟の城』なんかも忍者もので面白いし、もっと大長編の傑作が多いのですが、僕は、坂本龍馬にも日露戦争にもあまりロマンを感じませんので、『燃えよ剣』はそのコンパクトさと新撰組の人々が活き活きとしている魅力から、選ばせていただきました。この作品のおかげで、沖田総士のファンとなり、近藤勇の投降するシーンには、本当に涙を流しました。素晴らしい作品だと思います。


 十六番目は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』です。はじめはすごく嫌だったんです。なにしろ文章が乱暴で、時として、グロテスクになりますし……。そもそもあの『限りなく透明に近いブルー』の頃から、その作風は変わらないわけですが……。しかし圧倒的な凄さがある。それは生きようとする強い意志ではないでしょうか。ふたりの少年の人生。エネルギーの塊。


 十七番目は、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』です。『海辺のカフカ』と、どちらがいいか悩んだのですが、ここはやはり好きな方です。だいたい僕はわけもわからずに文学を読んでいます。この作品にしても同じです。短編集で『カンガルー記念日』というのがあって、好きで読んでいたのですが、なんやようわからない話でしたが、好きでした。そもそも最初に読んだのは、『ノルウェーの森』で、続いて『1973年のピンボール』を読んだのでした。


 十八番目は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』です。江戸時代の小説にして、これほど痛快で、馬鹿馬鹿しいものもありますまい。弥次喜多のふたりは東海道を歩いて、伊勢神宮へと向かいます。面白くて上下巻を一気に読んで、ヘラヘラ、笑っていた記憶があります。


 十九番目は、宮沢賢治の『注文の多い料理店』。『銀河鉄道の夜』の方か凄いじゃないか、という批判の声が聞こえてきそうですが、僕にとって重要なのは『注文の多い料理店』でした。もしもう一作挙げるとしたら『よだかの星』です。さらにもう一作というのなら『セロ弾きのゴーシュ』。岩手の宮沢賢治記念館に行った日のことを鮮明に思い出します。そして『猫の事務所』が入った本を買って、新幹線で読みながら、僕は関東へと帰ったのです。心象的な岩手県、イーハトーブの発想は、今でも僕を童話の夢に導きます。宮沢賢治の童話と共に萩原朔太郎の詩が好きで、ふたりの詩的な幻想の世界にはいつも酔わされています。


 二十番目は、芥川龍之介の『河童』です。凄まじい名作なのですが、これも説明をすると、味気なくなりますから、語りません。キリがないので、ここらへんで終りにしたいと思います。ありがとうございました。

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