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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

断罪された令嬢は奪われた幸せを取り戻す

 晴れ渡った空の下。


 この日の務めを果たすべく、白いローブを羽織ったオリヴィアは、神殿の渡り廊下を歩いていた。


 緩く波打つ白銀の長い髪に琥珀色の瞳。儚げな美しさを持つ、国一番の聖女である。


 聖女。それは光の治癒魔法を用いて、人々の病や怪我を癒す聖職者。

 力の強さによって位付けられており、十八歳のオリヴィアはその頂点に君臨していた。



 ふと、前方から馴染みのある声────見知った男女の談笑が聞こえてくる。


「……またあの人たちね」


 オリヴィアは眉根を寄せて足を止め、息を吐いた。


 遭遇すると面倒だと、二人から自分の姿が見えないようにルートを変えて移動する。


 高い垣根の隙間からうっすらと見える、仲睦まじく触れ合う男女は、王太子エドワードと侯爵令嬢パメラ。


 少し離れた位置には騎士服の男性二人、そして反対側にも二人。

 彼らはエドワードとパメラ、それぞれの護衛を担当している王国騎士団の者たちだ。


 金色の髪に茶色い瞳。金糸の刺繍が施された王族らしい高貴な身なりをしたエドワードは、愛しげにパメラを見つめていた。


 彼はオリヴィアの婚約者だというのに。



 パメラは侯爵令嬢であり、聖女の一人。

 聖女としての白いローブを羽織っているが、その下に着ているのは宝石があしらわれた紫色のドレス。

 真っ赤な長い髪は上部を複雑に編み込んでハーフアップにし、高価な髪飾りが輝く。


 彼女の肩書きは低位の聖女。

 擦り傷を治すのが精一杯なほど弱い魔力しか持っていなかったが、家の権力と多額の寄付によって聖女という地位に就いている。


 そんなパメラだが、半月前に突然強い力に目覚めた。


 それは現在、この国で一番だと言われるほど。

 次の魔力測定式では、最高位の聖女に認定されるのが確実だとされている。


(それはそうよね……だって彼女が持つ力は、本来私のものなんだもの)


 パメラから感じる魔力は、オリヴィアと全く同じ性質の魔力。

 それは同じ魔力の波長を持つ者にしか感じ取れず、持ち主であるオリヴィア以外の誰にも気づけないことだ。


 パメラが手に入れた強い力は、オリヴィアから奪い取ったもの。


 しかしそれを誰かに訴えたところで、証拠がなければどうしようもない。

 他人から魔力を奪うことができる違法な魔道具をバメラが所持しているのは確実だが、差し押さえる術がなかった。


 子爵家の娘であるオリヴィアが、格上の貴族の家を捜索などできるはずがない。


(まぁ、探す気もないけど)


 オリヴィアは魔力を奪われていることを全く悲観していなかった。


 エドワードを引き取ってくれるなら安いもの。むしろお礼がわりに、こちらから喜んで差し上げたい。


 パメラが最高位の聖女と認められれば、エドワードは彼女と婚約を結ぶために、オリヴィアに婚約解消を申し出るはず。


 今までオリヴィアについていた護衛騎士二人は、パメラが強い力に目覚めた直後からパメラを護衛し始めた。


 まだ肩書きだけなら、オリヴィアが国で一番の聖女だというのに、気が早いことだ。

 パメラを新しい婚約者にする気だと隠すつもりはないようで、本来なら諫めるべき立場の国王すら黙認している有り様。


 オリヴィアはかつて自分を護衛していた二人を嫌っていたから清々しているが。


 彼らが自分に向けてくる気持ち悪い視線。

 守るという建前で必要以上に距離が近く、意味もなく触れてくることにはうんざりしていた。


 大嫌いな護衛たちがいなくなり、大嫌いな婚約者との縁が切れるなんて願ったり叶ったり。


 幼い頃からの願いがこんな形で成就するとは思いもしなかったが、流れに身を任せていれば自由が手に入る。


(やっと彼と一緒になれる)


 オリヴィアは、もうすぐ他領の視察から戻ってくる想い人に想いを馳せた。




 ***




 オリヴィアは王都から少し離れた領地を治める子爵家の娘だ。


 隣り合う領地を治める侯爵家の三男、レスターとは同い年で幼なじみ。


 レスターはサラサラの黒髪に青い瞳を持つ美しい少年だ。


 こっそり二人だけで町に遊びに行ったり、森を散策したり。気の合う友人として関わっているうちに、いつしかお互い惹かれ合っていた。


 もう少し大きくなったら婚約できる。漠然とそう思っていた。



 八歳の時、オリヴィアは聖女としての力に目覚め、子爵領の町にある小さな神殿で聖女として働きだした。


 そして九歳になると、その力の強さを認められ、王都の神殿で勤めることになった。


 レスターはといえば、同時期に王都の学園に入学し、たった数ヶ月で高等学園までのカリキュラムを履修し終えていた。

 その優秀さから史上最年少で宰相補佐として働くことになった。


 オリヴィアが後から聞いたことだが、それは王都の聖女となったオリヴィアとの接点を増やすためだったようだ。


 神殿と関わることが多い宰相の近くで働くために、日夜勉学に明け暮れたという。



 しかしオリヴィアが王都の神殿勤めを始めて半年経った頃、国王が彼女と第一王子エドワードとの婚約を命じた。


 オリヴィアの祖母は上位の聖女で、祖先には最高位の聖女が何人もいる。


 王家に優秀な聖女の血を取り込むことを目的として、本人たちの意思は関係なく婚約の話が進められた。


 王命ではないものの、断ればオリヴィアの家は立場が悪くなる。

 王家に睨まれた弱小貴族などひとたまりもない。


 オリヴィアは彼女に会うために王都を訪れた両親が、深夜に話し合う様子をこっそり盗み聞きした。


「あの子には好き合った相手と結婚させてやりたい。レスター君なら必ず幸せにしてくれるだろう。だが貴族の娘でなくなってしまっては、彼と一緒になることは難しいだろうな……」

「そうね。うちには跡継ぎになる息子がいないから、レスター君がお婿さんに来てくれることを楽しみにしていたのに……たとえ没落してもあの子一人なら聖女としての自分の稼ぎで生きていけるだろうけど」


 両親は自分たちが貴族でなくなることは全く悲観しておらず、一人娘の幸せだけを心配していた。

 そんな両親が愛しくて、苦労をかけたくなくて、オリヴィアは悩んだ。


 自分は大好きなレスターと結婚したい。

 だけど王家からの打診をはね除けたら、両親の立場が悪くなり、生活を脅かされることになる。


 二人に苦労はさせたくない。


 オリヴィアは一晩中悩み、たくさん考えて、とある決断をした。




 ***




「ねぇレスター。私、エドワード王子と婚約することにしたわ」


 宰相の代理として神殿を訪れていたレスターに、オリヴィアは決意表明した。

 彼は手に持っていた書類袋を落とし、その顔に絶望を浮かべた。


「こん、やく……? え、もう決断を……?」


 レスターは消え入りそうな声で死にそうな顔になった。


 てっきり今日、王子との婚約について相談されるものだと思っていた。

 彼女の中でもう決めているだなんて想定外で、しかもよりにもよって最悪の選択。


「そう、婚約。しっかり考えて決めたことよ」

「…………そう、ですか……」


 レスターは今にも倒れそうだ。

 どうにか気力を保とうと、拾い上げた書類袋を持つ手に力を入れた。


「それで君が幸せになれるなら私は応援します。ですが、まずはそう決めた理由を聞かせてもらえますか」

「王家からの婚約打診をはね除けてしまったら、うちはおしまいなの。没落は確実よね」

「そうならないように、我が家で全力でサポートするつもりですが」

「さすがにあなたとご家族にそんな迷惑をかけたくないわ。それと、私は婚約すると決めただけで、あの方と結婚する気はないのよ」


 オリヴィアは令嬢らしからぬニヤリとした笑みを浮かべた。


 それはいたずらを思いつき、それを決行しようとしている表情だとレスターは知っている。


 オリヴィアは人生計画を話し始めた。


 彼女の第一の目標は、最高位の聖女になること。

 そうすれば、ほんの数年で一生遊んで暮らしていけるほどの財産を得ることができる。


 両親には王家の手が届かない他国に移り住んでもらい、不自由のない生活を送ってもらいたい。


 それが可能なお金を手に入れて、それから婚約の解消を申し出るつもりだ。



「問題は、あなたはどうするかなのだけど」

「一緒に行くに決まっているでしょう。君のそばが私の居場所です」


 即答するレスターに、聞くまでもなかったわね、とオリヴィアは笑った。





 ***





「君が私の婚約者だなんて、残念でならない」

「陛下がお決めになったことですから」

「はぁー……」


 表面上を取り繕いもせず、オリヴィアにストレートに不満をぶつけてくるのは、彼女の婚約者となった王子エドワード。


 お互い不本意な婚約が決まってからというもの、会えば不満ばかり聞かされている。


(こっちだって残念なんですけど)


 結婚する気はないとはいえ、婚約者である間は誠意を持って関わるつもりでいたし、そうしてほしいものだ。

 オリヴィアと婚約したことで、エドワードは王太子になれたというのに。


 彼から好意を寄せられたとしても、それに応えられないことを申し訳ないと感じていた。

 しかしエドワードとの初顔合わせで、良心を痛める必要はこれっぽっちもないのだと知る。


 オリヴィアは美しいが、彼の好みからずいぶん外れているようだ。

 白銀の髪も優しげな顔立ちも華奢な体も好みではないようで、全体的に白く、まるで幽霊のようだと嫌悪してくる。


 最初こそ笑顔で受け流していたオリヴィアだが、それも段々馬鹿らしくなり、今では無表情でスンとしながら愚痴を聞き流している。


 そんな態度も可愛げがないと、エドワードとの心の溝は深まっていった。



「君も私との婚約は不本意なのだろう。もっと優秀な聖女が現れたら、さっさと婚約を解消してあげるから」

「お好きになさってください」


 オリヴィアは素っ気なく答えた。


 相手は王族。うっかり満面の笑みで『喜んで!』などと答えないように気をつけた。




 ***




「ほんっっっとうに、腹が立つわ、あのクソ野郎」


 神殿の一室で、オリヴィアはいつものように盛大に愚痴っていた。


 少々お口が悪いのは、こっそり下町に遊びに行き、庶民と仲良くしていた時の影響である。


「まあまあ。想いを寄せられるよりいいじゃないですか」

「そうだけど、普段憎たらしいのに、パーティーでは私の手を取って紳士らしく振る舞って、それはそれで腹が立つわ」

「それは仕方がないでしょう」

「そうだけど!」


 眉をつり上げるオリヴィアに、レスターは穏やかに笑いかける。

 彼は仕事の合間にこうやって、オリヴィアと会う機会を作っていた。



 十五歳になったオリヴィアは最高位の聖女としての地位を手に入れ、レスターは次期宰相候補という地位を手に入れていた。


 国にとって貴重な存在となったオリヴィアには、神殿の外に出る時に護衛騎士二人が付き従うようになった。


「あの護衛たち、ほんっっっとうに気持ち悪いったらありゃしない」

「…………何があったのか聞かせてもらえますか?」


 レスターの声音は一気に低くなり、心なしか殺気を纏わせた。


 オリヴィアは大嫌いな護衛たちへの愚痴も一気に溢し終えて、ふうと一息吐いた。


「計画は順調だけど、あなたは今の地位を失うことになって後悔しないの?」


 紅茶を一口飲み込んでから、小さな疑問を口にする。


「愚問ですね」


 レスターは鼻で笑った。

 きちんと答える意味すらないほど、彼のオリヴィアへの想いは深い。


 オリヴィアはこの数分間ずっと愚痴を溢し続けていたとは思えないほど、柔らかく可憐に、心から嬉しそうに微笑んだ。


「むしろ早く解放されたいくらいです。多方面からの妬みが日に日に増して、居心地の悪さときたら」

「優秀すぎるのも考えものね」

「お互い様でしょう」

「ふふ、そうね」


 華々しい活躍を遂げている二人には、その地位を羨んで嫉妬し、悪意を向けてくる者たちが数えきれないほどいる。


 この日二人は、将来確実に幸せを掴むために、ある契約をいくつか交わした。





 ***





 神殿の大聖堂。

 何列も並ぶ長椅子には、順番を待つ人々が座る。


 十八歳になった聖女オリヴィアは、怪我人の前に跪いた。


 後ろで緩く纏めた長い白銀の髪が揺れ、天窓から差し込む光を受けて輝く。

 そのあまりの美しさに、人々は怪我による痛みを忘れて息を吐いた。


 最高位の聖女は稀少な存在で、現在この国にはたった一人しかいない。


 その唯一であるオリヴィアの力は、十七歳の頃から徐々に減り続けていた。


 今では軽度の傷を癒すのがやっとで、下位の聖女が受け持つ仕事に就くことしかできないでいる。


 オリヴィアの国一番の聖女という肩書きは、上辺だけのものになっていた。


 年に一度、近々行われる魔力測定式で、その地位を剥奪されるのは明らかだった。


 それでもオリヴィアは怪我人一人一人としっかり向き合い、精一杯の治癒を施していた。


「これで私の治癒は完了となります。足の方は隣室にて中位の聖女が癒してくれるでしょう」


 目の前の老女に穏やかに微笑みかけると、憐れみの表情で返された。


「聖女様はまだ調子が悪いのですねぇ。早く元に戻るとよいのですが」

「ふふ、お気遣いありがとうございます」


 怪我人に心配されてしまい、オリヴィアは笑顔で返した。


「ねぇねぇ、聖女さまは『いんたい』しちゃうの?」

「そうね、もしかしたらこのままお仕事を辞めちゃうかもしれないわ」

「そっかぁ……そうなったらボクがおよめさんにしてあげるね。聖女さまはいっぱいお仕事がんばったから、お休みしてゆっくりするのがいいんだって」

「ふふ、ありがとう」


 オリヴィアは隣から話しかけてきた少年とささやかな約束を交わした。


 ごめんね。私には心に決めた人がいるから無理なのよと、心の中で謝りながら、もうすぐ訪れるはずの、念願が叶う日を心待ちにした。


 魔力測定式では、オリヴィアと交代するようにパメラが最高位の聖女となるだろう。


 その後、オリヴィアはエドワードから婚約の解消を告げられるはずなので、彼女の方から解消を申し出る必要がなくなるのだ。


 両親に迷惑をかけることなく、晴れて自由な身となれる。



 やっと、念願が叶う。

 そう思っていた。





 ***





「…………え?」



 レスターが乗る馬車が、領地視察の帰り道で野盗に襲撃されたとの知らせが入ったのは、魔力測定式の一週間前のことだった。


 同行していた文官たちと御者は運良く逃げ延びたが、彼らの話によると、レスターは真っ先に命を奪われたという。


 騎士団から捜索隊が現場に派遣されたが、現場に残っているのは破壊された馬車とおびただしい血の痕、そして黒い獣の毛だけだった。


 レスターは殺害された後、血の匂いにつられてやってきた獣に食われたのだろうと推測された。


 生存の可能性はあまりに低く、捜索はすぐに打ち切りとなる。


 遺体は見つからないため死亡判定できず、書類上は行方不明扱いとなった。




「そんな……」


 オリヴィアは泣き崩れた。

 あと少しで彼と一緒になれた。それなのに、なぜこんなタイミングで。


 彼が視察を担当していなかったら。

 馬車が違うルートを走っていたら。


 三日三晩泣き続けて、その間は聖女としての務めを休まざるをえなかった。


 そして涙が枯れ果てた頃、オリヴィアは重要なことを思い出した。


「…………魔力を完全に失うわけにはいかないわ」


 ほんの少しでも残っていなければいけない。


 オリヴィアは冷静さをまだ取り戻せていない状態で、慌ててパメラの下へと向かった。



「お願いです! 力を返してもらう必要はありません。あなたは殿下と結婚して幸せになればいい。決して邪魔はしません。ただこれ以上は私の魔力を奪わないでください!」


 オリヴィアは自分は敵ではないと必死に訴える。

 パメラの両肩を強く掴み、激しく揺さぶった。


 正気を取り戻した頃には、オリヴィアはパメラの護衛二人に取り押さえられていた。


 パメラは見下すように鼻で笑うと、オリヴィアを睨み付けた。


「わたくし、あなたのことが大嫌いなの。だから最後の一滴まで絞り尽くしてあげる」

「そんな……お願いです。私の力の大半に婚約者、それだけ奪えば十分でしょう!?」

「高貴なわたくしを差し置いてあの方の婚約者になったことも、高い地位に就いていることも、あなたの全てが憎くてたまらないわ。だから奪えるものは少しも残してあげない」


 パメラはふふんともう一度笑うと、護衛二人を引き連れて立ち去った。


 その場に残されたオリヴィアは、へたり込んで泣き崩れることしかできなかった。






 ***






 明かりを消した暗い自室。

 オリヴィアは床に膝をついて、魔力の白い光を灯した両手を胸の前で組み、細い月が浮かぶ窓の外に向かって祈りを捧げていた。


「ダメね……持ってあと数日かしら……」


 オリヴィアは本日受けた魔力測定式で、最高位の聖女という地位を剥奪された。

 魔力はもう、ほんの少ししか残っていない。


 しばらく目を瞑って祈った後、頼りない光を放つ両手を見つめながら静かに溢した。



 聖女として活躍することには全く未練はない。


 十年の歳月で、もう十分すぎるほど働いた。

 両親だけでなく、オリヴィアもほどほどに贅沢しながら、一生暮らしていけるほどの財産がある。


 だけどそんなものは、今の彼女には必要ない。

 地位も名誉も名声もいらない。


 たった一人、そばにいてほしい人物がいなければ、何もかもが無意味だ。


 オリヴィアは再度目を瞑って祈りを捧げた。




 ────────ふわり。


 風でカーテンが浮き上がった。

 窓から入り込んできたのは、黒い影。


 大きな影は床を這い、オリヴィアの目の前までやってくると、蠢きながら縦に横にと形を変えていった。


 影はオリヴィアが少し見上げるほどの高さになり、頭部、胴体、手足と、人のような形を成していく。


 そうして最終的に骸骨を思わせる形となった。目元の窪みには青い光が揺れている。


 急に現れた亡霊のような影に、驚いたオリヴィアはぺたんと両手を後ろについた。


「あ……あ、あ……」


 何か言わなければ。

 そう思うのに、言葉が詰まってうまく話せない。



 黒い影は少し屈んで、オリヴィアにゆっくり右手を伸ばす。


 彼女はそれを真っ直ぐ見つめて、震える華奢な白い手を差し出した。


 実体のない黒い手が重なると同時に、白い魔力を放つ。


 オリヴィアにほんの少しだけ残った魔力。それを出せる限りの全力で出すと、亡霊のような影に白い光が纏わりついた。


 さらりとした黒髪に、すらりとした体躯。

 みるみるうちに貴族服姿の男性へと変わっていく。


「オリヴィア、やっと会えましたね」


 レスターは泣きそうな顔で微笑むと、愛しい女性を強く抱きしめた。


「……間に合ってよかった。もうダメかと思っていたわ」


 オリヴィアはずっと待ち続けていた人と再会できた喜びにうち震えた。



 もう人という存在ではなくなってしまったけれど。





 レスターは野盗に襲われ、四肢を切り刻まれた。

 バラバラになった体は獣に喰い尽くされ、指先ひとつ残っていない。


 彼は死んで魂だけの存在となり、黒い影で彷徨っていた。


 生前にオリヴィアと交わした契約。

 それだけを頼りに、微かに残った自我でどうにか彼女の魔力を感じ取り、数日かけてこの場に辿り着いた。



 一緒にいられるのなら、お互いがどんな存在になっても構わない。


 他国から取り寄せた魔術書を用いて結んだ契約。

 死が二人を分かとうとも、どちらかの命が存在する限り、誰にも絆を分かつことはできない。


 与えられたオリヴィアの魔力によって、レスターは死霊として甦ることができた。



 再会を喜んでいたオリヴィアだが、ふつふつと疑問が湧いてきた。


 人ではない存在と成り果てたのに、なぜか触れることができ、抱きしめられた体からは温もりを感じる。


「レスター、あなた死んでしまったのよね……? 実体があるのはなぜかしら?」

「そういえばそうですね。魔術書には契約者同士で意志疎通が可能になると記述してありましたが、実体を得たり生前の姿に戻るとまではありませんでしたし……」

「不思議ね……ところで、その……」


 オリヴィアは顔を赤くして俯いた。

 その仕草にハッとなり、レスターは抱きしめていた両手を離した。


「……すみません。つい勢いで……」


 二人は想い合っているが、今まで軽く手を握った経験しかない。

 オリヴィアに婚約者がいたこともあり、常識的な距離感で接してきた。


 二人して赤くなりながら、顔を背けあう。

 しばらくすると、レスターがおもむろに口を開いた。


「もしかすると、今の私の姿は君が望んだからかもしれません。聖女の力は万物を正常な状態に戻すものでしょう」

「なるほど、無意識に私がそうしたのかもしれないわね……だけど私はあと数日で完全に力を失ってしまうから、そうしたら今度こそ本当にお別れになってしまうわ」

「今の私でしたら、君の力を奪う魔道具を見つけられるかもしれません」


 レスターは意図的に体の右側を黒い影に変え、右手を床に突き抜けさせた。


 死霊となった彼は壁をすり抜けて、誰にも気づかれることなく捜索が可能だ。


 彼は再び床を這う影となり、ゆらりと窓から出ていった。





 数時間後。

 レスターは赤い石がついた箱形の魔道具を手に、オリヴィアの部屋に戻ってきた。


 パメラの家の敷地内にある蔵の床下に隠されていたという。


「これでしょうか?」

「ええ、間違いないわ。私と彼女の血液を媒体にして作動しているようね」

「では今すぐ壊しても構いませんね? 力が戻らなければあなたは断罪されてしまう」

「どういうこと?」


 レスターは捜索時にエドワードとパメラの逢い引きに遭遇し、二人の会話を盗み聞きしていた。


 ご機嫌そうに、オリヴィアを罪人として裁いてやると意気込んでいたようだ。


「罪人ですって……」


 パメラはどこまでも徹底的に、オリヴィアを苦しめないと気が済まないようだ。


 罪人となれば財産を全て没収されてしまう。


 大切な両親も苦しめることになる。そんなのは許せない。


「お望みとあらば、今すぐ二人の息の根を止めてきます」


 今のレスターになら、それが容易に遂行できる。

 オリヴィアは彼の申し出に頷きかけて、思いとどまった。


 楽に死なせてやるだなんて癪だ。

 せめて少しでも屈辱や苦しみを与えなければ気が済まない。


 オリヴィアはいたずらを思いついたように、無邪気にクスクスと笑った。


「あの人たちにとびきりの嫌がらせがしたいの。協力してくれるかしら」

「勿論、喜んで」


 レスターは内容を聞くまでもなく快諾する。

 彼女のお願いなら、何であろうと叶えるつもりだ。





 ***





 数百年前、女神より神託を受けて癒しの力を授かったという女性────聖女が国に現れた。


 今日は一年に一度、国中が聖女の誕生を祝う日。

 王侯貴族、神殿に勤める者たちは、王城で盛大に開かれる夜会への参加を義務付けられている。


 オリヴィアには、現状ではまだ婚約者であるエドワードからエスコートの申し出はなかった。


 王家に抗議しようと憤る父を止めて、私は大丈夫ですと余裕の笑みを向ける。


「何があろうとも口を出さないとお約束していただけますか。私たちの長年の念願を叶えるために、全てが無駄になってしまわぬようにご協力ください。オリヴィアの幸せのために、どうか」


 一足先に、オリヴィアの両親にだけ姿を見せたレスターは、真剣な眼差しで彼女の父を牽制した。

 何をするつもりなのかと、質問すらできそうにない気迫に押され、父は引き下がった。



 そうしてオリヴィアは、両親と共にパーティー会場に入った。


 ざわめきの中、水色のドレスを着たオリヴィアは堂々とした立ち姿で、次々と会場入りする貴族たちを眺めていた。


 最後に王族が入場する。

 エドワードが深紅のドレス姿のパメラを伴って登場したことに、来場者たちは驚きを隠せない。


「今宵、記念すべきこの日を皆で祝い、喜びを分かち合おう。この国に生きる者全てに女神様の祝福があらんことを願う」


 国王はパーティーの開始を高らかに宣言すると、息子であるエドワードから発表があると言った。


 エドワードとパメラは仲良く腕を組みながら前に出る。


「オリヴィア、前に出るんだ」


 エドワードに命令されて、オリヴィアは二人の前に出た。


「私はここで、オリヴィア・フロレンスとの婚約を破棄する。そして新たにパメラ・カトラルを婚約者とする」


 王太子の場違いな宣言に、水を打ったように静まり返る会場。エドワードは言葉を続けた。


「パメラは昨日、最高位の聖女であると認定を受けた。そんな彼女の命を脅かした罪人であるオリヴィアを、北の監獄送りの刑に処す」


 北の監獄。雪に閉ざされた地であり、生涯、過酷な労働を強いられる場所だ。


 全く身に覚えのない刑を言い渡されたオリヴィアだが、驚きもせず、ただ呆れながら静かに佇んでいる。


(さすがにそこまではしないのではと思っていたけれど、レスターの言った通りになったわね)


 パメラは自分から奪えるものを奪い尽くすだけでは物足らず、より深く、どこまでも絶望に沈めなければ気が済まないようだ。



 ────その傲慢ささえなければ、身を滅ぼさずに済んだというのに。


 あまりに愚かで、滑稽。


 オリヴィアは可笑しすぎてつい、状況にそぐわない美しい笑みを浮かべてしまった。


「婚約破棄は謹んでお受けします。しかしパメラ様の件に関しましては、全く心当たりがございません」

「君は自分の力が衰えた原因がパメラであると妄想し、彼女の命を奪おうと暗殺者を差し向けたであろう」

「いえ、そのようなことは」

「醜い嫉妬はそこまでにして、潔く罪を認めるんだ」

「嫉妬、ですか」


 オリヴィアは小さく呟いた。


 もう見ていられないと、オリヴィアの父は前に出ていこうとした。


「────大丈夫です。最後までご静観を」


 後方から穏やかに諭す声に、父はハッとなる。


 声の主の姿は誰にも見えない。

 存在感を消し、会場にひっそりと紛れている。


 黒い影は懐から何かを取り出して、力を込めて握りつぶした。

 静まり返った会場に、メキッと鈍い音が響く。


 オリヴィアは右手を前に出した。


「なぜ私が彼女に嫉妬を? だって、ほら────」


 目が眩むほど強い白い光が、会場を包み込んだ。


 それは徐々に魔力が減り続けて、頼りない光しか出せなくなっていたはずのオリヴィアが出したもの。


「私は昨年、大型害獣の大量発生により怪我を負った人々を癒すために力を過剰に消耗しました。それに加えて精神的な疲労がたまり、体に自己防衛機能が働いていたのです。ですがここ数ヶ月しっかり休ませていただいたおかげで、ようやく回復いたしました」


 すっかり元に戻りましたと、満面の笑みで右手を見せた。


「ですので、私がパメラ様に嫉妬する理由なんてありません。むしろ自分と同程度の力を持つ存在が現れたことを神に感謝しています。私の負担が大幅に減るのですから。そうでしょう、パメラ様」


 オリヴィアにじっと見つめられ、パメラは目を泳がせる。


「これからは同じ最高位の力を持つ聖女として助け合っていきましょう。パメラ様はこれから大急ぎで妃教育の全ての課程をこなさなくてはいけませんから大変でしょうが……いえ、優秀なエドワード殿下がおられますし問題ありませんね。要らぬ心配を失礼いたしました」


 オリヴィアはパメラの隣に立つ、元婚約者ににこりと微笑みかける。


 エドワードは狼狽えた。


 オリヴィアの力が戻るなど想定外。

 彼女から力を奪った魔道具は、誰の目にも触れぬよう、壊れぬようにと、床下に隠した金庫に厳重に保管してあるはずなのに。


 この場でオリヴィアとの婚約破棄を宣言することは、国王に認めてもらっていた。


 国王にとって、王家に最高位の聖女の血筋が入るなら誰でもよく、むしろパメラの方がオリヴィアより家格が上で、息子の相手に相応しい。


 だが、オリヴィアの力が戻った。

 それはつまり、パメラの中にあった強い力が消滅したことを意味する。


 パメラの中には、元から存在していた微々たる魔力しか残っていない。


(クソッ、魔道具が壊れたのか? なぜこのタイミングで……!)


 エドワードはギリッと歯を鳴らした。


 彼はオリヴィアから力を奪った主犯である。

 茶会時に、オリヴィアをこっそり睡眠薬で眠らせて、指先から彼女の血液を採取したのは彼だ。


 聖女に睡眠薬は数秒しか効かず、傷はすぐに塞がる。

 証拠を残すことなく迅速に、うまく遂行していた。


 せっかく自分好みな容姿を持つパメラと結婚するために、計画していたというのに。

 憤るエドワードの隣では、パメラが指先を震わせていた。


(まずいわ……この場で力を使えと言われたら……)


 なぜこんなタイミングで運悪く魔道具が壊れてしまったのか。

 パメラは身構えた。オリヴィアは自分から魔力を奪っていた犯人を知っているのだから。


 しかしオリヴィアは、慈しむように目を細めた。


「誰にだって勘違いはあります。パメラ様は誰かに命を脅かされたのですね。それなら私が疑われても仕方のないこと」

「…………え?」


 意外な言葉に、パメラはポカンと口を開ける。


「国にとって大切な存在である最高位の聖女を守ることは必然的です。国民のために、エドワード殿下は冷酷な悪役を買って出たのでしょう。さすが、国を背負う王となるべく風格をお持ちです。そして私は、強い愛で結ばれた真に想い合う二人を祝福したい。お二人の新たな婚約を心から嬉しく思います」


 オリヴィアはエドワードを一切責めず、祝いの言葉を向けた。

 その慈悲深さに会場中が感動して胸を打たれた。


「なんというお心の広さ」

「さすがは最高位の力を持つ聖女様だ」

「謂れのない罪で監獄送りを言い渡されたのに、なんて清らかな心をお持ちなのでしょう」


 皆が口々にオリヴィアを褒め称える中、一人の男性が颯爽と歩いてくる。


 自分の後方に目をやり、顔を明るくさせるオリヴィアを不思議に思い、エドワードは振り向いた。


「────ッ、なっ……」


 この場にいるはずのない黒髪の男が目に入り、絶句する。


「レスター・ウィザーズ……!? なっ……」


 なぜ生きている、という言葉は寸前で呑み込んだ。


 レスターはオリヴィアの隣に立つと、胸に手を当てながら口元に弧を描いた。


「お久しぶりです殿下。どうやら私は行方不明者となっていたようですね。ご心配をおかけして申し訳ございません」


 顔をひきつらせるエドワードからの言葉を待たずに、レスターはオリヴィアの手を取った。


「せっかくですので、この場をお借りしてご報告を。オリヴィア嬢とエドワード殿下の婚約が解消された場合、私、レスター・ウィザーズは彼女の新しい婚約者となるよう契約を結んでおりました。ですのでつい先ほど、私とオリヴィア嬢は婚約関係となりました」


 まさかの報告に、会場のあちこちから小さな悲鳴が聞こえてくる。

 傷つけられたオリヴィアを救うように颯爽と現れたレスターは、この場にいる王子よりも王子らしく見えた。


「私はレスター様と幸せになります。ですのでこの場で婚約破棄を突きつけられたことは気にしていません。こちらのことはお気になさらず、あなた方は幸せになってください」


 オリヴィアは有無を言わせない流れに持ち込んだ。

 エドワードがしたことは最低で下劣な行為だが、当事者たちが皆幸せになれたのだから、それでいいのではないか。

 これ以上ないほど平和に事態が落ち着くのだから。


 見守っていた者たちは隣り合う者同士で顔を見合わせる。

 慈悲深いオリヴィアの意向を無下にしてはいけないと、静かに頷きあった。


 会場に祝福の拍手が鳴り響く。

 ずっと静観していた国王は前に出てくると、エドワードに冷ややかな視線を向けた。


 自分そっくりな息子を溺愛している父親。

 何をしても咎められることはないと余裕でいたエドワードは、生まれて初めて蔑むような目を向けられた。

 青ざめて冷や汗が頬をつたう。


 国王はオリヴィアに、愚息が失礼したと詫びた。

 頭を下げる国王に、どよめきが起こる。


「尊厳を傷つけた慰謝料はしっかり支払うと約束しよう。それでは皆の者、どうか引き続き喜ばしいこの日を祝い、楽しんでくれたまえ」


 国王はパーティーの再開を宣言して退出した。


 オリヴィアの両親も事なきを得たことを喜びあい、どっと疲れが押し寄せてきてパーティー会場を後にした。



 その場に残されたエドワードは、刺すような視線に晒されていた。


 立ち去る前の国王からは、愚かな行いを悔い改めるように、今後はもっと王子らしく国に貢献するように、数々の功績を残しているレスターを見習えと耳打ちされた。



 力が戻ってすぐに右手から眩い光を発した際、国王として相応しい清らかな心に浄化したのはオリヴィアである。


 自分と王子を婚約させた諸悪の根源。穢れた心など清める必要がある。


 聖女の力は万物を正常な状態に戻すもの。

 ありとあらゆる穢れを浄化することが可能だ。


 しかし人の心までもを浄化────もとい改変するなんて、いくら聖女でも不可能なこと。

 普通の聖女には、そんな力など存在しない。


 契約によって死霊に魔力を与え、魂の根源に触れた聖女オリヴィアだからこそ為せる技だ。




 パーティーの再開が宣言されたが、この場で一番身分が高い王子が先に踊らなければ、何も始まらない。


 蔑みの視線を多く向けられて居たたまれない中、彼はパメラの手を取り、ステップを踏み出した。


(ふふん、よく分からないけれど、どうにか収まってよかったわ)


 パメラの計画通りにいかなかったが、王子との婚約は無事に成立した。


 彼が国王になったら、自分は国で一番の女性になる。


 注目されて気分がいいパメラは、周囲から向けられる視線は羨んでいるものと勘違いし、得意気に踊った。


 最高の気分で踊り終えると、次いでオリヴィアとレスターが踊り始めた。


「お手をどうぞ、わが姫」


 レスターはいたずらっぽく笑い、手を出した。


 昔は物語の中の姫と王子になりきって、こっそり二人で踊っていた。

 幼少期からずっと夢見ていた場面に、オリヴィアの胸が高鳴る。


 いつもの聖女然とした微笑みではなく、心から楽しそうなオリヴィアと、彼女を愛しそうに見つめるレスター。


 二人は会場中から注目されて、素敵なお似合いカップルだと羨望される。



「では、私たちはこれで失礼いたします」

「皆さまはどうぞ、お楽しみください」


 一曲踊り終え、疲れたからと会場を後にする二人。 

 最後まで気丈に振る舞ったオリヴィアには、同情と尊敬の念を向けられた。



 注目の視線を奪われたパメラは面白くない。

 エドワードは沸々と怒りを滾らせて、パメラの護衛騎士二人に耳打ちした。


 護衛騎士二人はすぐに、オリヴィアたちが退場した扉から出ていった。




 ***




 薄暗い部屋。

 オリヴィアとレスターは両手を後ろで紐で拘束された状態で床に座らされていた。


 窓はなく、明かりは棚に置かれた小さなランプ一つ。

 扉の前にはパメラの護衛騎士二人が立っている。


 会場を出てすぐ、二人は人気のない廊下で短剣を突きつけられた。


 そうして連れてこられたこの場所は、王城の敷地内の端にある、今は使われていない古びた倉庫。


 二時間後、二人の護衛騎士を引き連れて、エドワードとパメラがやってきた。


「クソ、お前たち、よくも恥をかかせてくれたな!」


 エドワードは部屋に入るや否や、近くに置かれていた木箱を蹴りつけ、その勢いのままレスターを何度も蹴りつけた。


「くっ……」


 レスターは小さく唸った。

 生身でないため痛みを感じないが、顔をしかめて痛そうに演技する。


 少しも怪我をしていないが、室内の光源はランプの微かな明かりだけ。

 薄暗いため誰も気づいていない。


「それにしても、なぜお前が生きているんだ。万一にも生き延びることがないように、切り刻めと命じたはずなのに」

「……やはりあなたの命令でしたか」


 レスターは痛がる演技を忘れ、静かに言葉を発した。


 エドワードが自分を疎んでいることは薄々感じていた。

 レスターが持つ青い瞳は王家特有のもの。元王女を祖母に持ち、その上優秀。

 エドワードはことあるごとにレスターと比べられてきたのだと知っている。


「今度こそ確実に息の根を止めてやる。もちろんお前たち二人ともだ」


 そう言って、エドワードは懐から小箱を取り出した。

 赤い石のついた魔道具だ。


「これで再び聖女の魔力を吸い出してやる。前回は少しずつ落ちぶれていくお前が見たいというパメラの要望で、一年かけてじわじわと吸い出してやったが、そのせいで壊れてしまったのだろう。今回は一気に吸い出して、すぐに殺してやる」


 魔力の持ち主であるオリヴィアが死ねば、たとえ魔道具がまた壊れたとしても、奪った魔力はパメラの中に留まり続けることになる。



「エドワード様。魔力を奪って殺すだけではもの足りません」


 パメラはエドワードの腕に絡みつき、上目使いを向けた。


「そうか。それなら気が済むまで痛めつけるか?」

「それもいいですが、精神的に苦しんでいただきたいのです。ですから……辱めるというのはいかがでしょう」

「……あぁ、それはいいな」


 甘い声で囁くおぞましい提案に、エドワードはすぐに賛同した。


「お前たち、あの女を辱めろ」


 命令を受けた護衛騎士四人は、一切躊躇うことなく、愉悦の表情を浮かべた。

 オリヴィアは気高く美しく、誰もが憧れた存在。そんな彼女を穢せる機会など、もう二度と訪れない。


「命令とあらば仕方ないよな」

「あぁ、王族の命令を断れるはずがない」


 仕方なくといった口振りで、その顔には嬉しさを滲ませる。

 レスターを邪魔だと蹴飛ばし、四人はオリヴィアに近づいた。


 オリヴィアは呆れ果てて何も言えなくなる。

 まさか自分の元護衛騎士だけでなく、エドワードの護衛騎士すらも下衆だったなんて。


 エドワードに従ってこの場にいる時点で、ろくでもない人間性なのは確実だったが。



 四人が伸ばした手がオリヴィアに触れる寸前。

 床から這い延びる無数の黒い影が、四人を軽々と吹き飛ばした。


 勢いよく衝突した石壁に、いくつもの亀裂が入る。

 重なるように床に倒れた四人。


 彼らの手足や首はおかしな方向に折れ曲がり、目を見開いたまま動かなくなった。


 彼らが起き上がることはもう二度とないだろう。


 いつの間にか両手の拘束を解いて立ち上がっていたレスターは、オリヴィアの拘束も解いた。


 想定外の事態に、エドワードとパメラは青ざめながら身を竦めた。


 怒りに震えるレスターは、人間としての姿形を保てなくなる。

 骸骨のようなおぞましい黒い影になり、大きな鎌状のものを高く構えた。


「────こんな汚れきった醜いゴミ、生きている価値はありませんね」


 その姿は、死を司る存在といわれる死神そのもの。

 鎌を向けられた二人は、足が震えて動けない。


「やめ────……」


 どうにか絞り出された声に反応することなく、レスターは躊躇いなく鎌を振り下ろした。


 風圧でランプの火が消える。


 暗闇の中。鈍い切断音と何かが飛び散る音だけが聴こえた。

 二人の耳障りな声は二度とオリヴィアの耳に届くことはなかった。




 一刻も早くこの場から立ち去るため、レスターは無数の影で扉と壁を内側から破壊した。


 わざと大きな音を立てたので、すぐに誰かが駆けつけるだろう。


 レスターはオリヴィアを横抱きにして、高く飛び上がった。

 王城の敷地内から外に出て町へ。

 黒い影としか認識できないほど早く、建物の屋根の上を移動する。


 あっという間に王都から遠く離れた町までやってきた。


 屋根の上でオリヴィアを下ろし、人間の姿に戻ったレスターは泣きそうな顔をしていた。


「……勝手なことをしてすみません」


 怒りを抑えきれなかったと、悲痛な声で謝罪する。


 オリヴィアの計画では、最高位の聖女に任命されたにも拘わらず、全く力のないパメラが慌てふためく様を傍観して楽しみ、王子に相応しくないと各方面から糾弾されるエドワードを傍観して楽しむ予定だった。


 二人に屈辱をたっぷり味わってもらい、その後、穢れた精神を浄化する予定だった。


「いいのよ。あの二人の魂に触れるなんて嫌悪感しかなかったから、その必要がなくなって安心しているくらいなの」

「ですが、君の目の前で人を殺めてしまいました。精神的に苦痛を与えてしまったでしょう」

「……いいえ。自分でも不思議なほど、何も感じていないわ」

「本当ですか?」

「ええ」


 憎かった二人の命がずいぶんあっさりと、あっけなくこの世から消えた。

 もう二度と顔を見なくて済む。二度と会話することはないのだと、むしろ軽やかな気持ちで。


 聖女失格ねと、オリヴィアは眉尻を下げた。


「あなたはどう? 人ではなくなったとはいえ、心は以前と変わらないでしょう。苦しくはない?」

「そうですね……あの男が君の手に触れる度、君を蔑ろにする度に、切り刻んでやりたい衝動に駆られていました。ですから清々しい気分です。他の者たちも憎くてたまらなかったので、全く後悔はありません」

「そう。あなたがスッキリしたのなら私は嬉しいわ」

「…………失望していませんか?」

「これっぽっちも」


 オリヴィアの軽やかな言葉にレスターは力が抜けて、その場にへたり込んだ。

 はぁぁぁと大きく息を吐くと、へにゃりと緩んだ笑みを浮かべる。


「君に愛想をつかされなくてよかったです」


 レスターはオリヴィアに嫌われていないことに、心から安堵しているようだ。

 つい数分前に、多くの人間を殺めたとは思えないほどの可愛らしさ。

 死霊になっても彼の本質は変わらないことが、オリヴィアにとって何より嬉しい。


「ねぇ、お祭りをしているわ」


 屋根の上から見下ろしながら、オリヴィアは明るい広場を指差した。


 夜でもはっきりと広場全体が見渡せるほど、たくさんのランプが上から吊るされている。

 ズラリと並ぶ露店に、賑わう人々。


 聖女の誕生を祝う祭りが催されているようだ。


 誰にも気づかれないように地面に降り立ち、二人は広場に足を踏み入れた。


 麗しい二人の登場に、町の人たちは一斉に視線を向ける。


「これだけ大勢に目撃されたら、私たちがこの時間にこの場所にいたという確実な証拠になりますね」


 無惨な姿に成り果てたエドワードたちは、今頃発見されているだろう。


 オリヴィアとレスターは、ずいぶん早くにパーティー会場を出た。

 そして今、王都から遠く離れたこの町にいる。


 どう考えても犯行は不可能で、容疑者になり得ない。


「ねぇ。この際だからもっと目立ちましょうよ」


 自分たちの存在を町の人々の記憶に焼きつけるよう、派手に振る舞おうと提案する。


 オリヴィアは昔に戻ったように溌剌と、ドレスの裾を持ち上げながら駆け出した。


 ようやく念願を果たせたのだと実感し、嬉しさのあまり、レスターは瞳を滲ませた。

 彼が死霊であるだなんて、誰も思いはしないだろう。


 陽気な音楽が流れる中、二人は手を取り合った。

 貴族のダンスとはかけ離れた優雅さの欠片もない動きで、くるくると楽しげに踊る。


 二人を囲むように、町の人たちも踊り始めた。



「オリヴィア。この魂が朽ち果てるまで、君のそばにいることをお許しください」

「もちろん。私が死ぬまで、いいえ、死んでからもずっと一緒よ。嫌になっても絶対に解放してあげないんだから」


 最高位の清らかな聖女とは思えない言葉を発しながら、オリヴィアは無邪気に笑った。











(おまけの小話)

 王太子たちがあんなことになり、しばらくなんやかんやとあったが、どうにか平穏を取り戻したその後のふたり


「ねぇレスター。あなたはもう食事をとることはできないのよね……」

 彼が好きな食べ物をいくつも知っているオリヴィア。

 もう口に出来ないのなら悲しい。

「どうでしょう。何だか食べられそうな気がしますが。心なしか食欲のようなものが涌いてきた気も……」

 オリヴィアの目の前にある小皿からクッキーを一枚手に取って食べ始めるレスター。

「食べられますね。味も分かるので美味しいと感じます」

 すごく喜ぶオリヴィア。

「ねぇ、それじゃあ今度一緒に行ってみたい喫茶店があるのだけど……」

 せっかく婚約者になれたのだから、一緒にお茶の時間を楽しんだり食事デートをしてみたい。

「ぜひご一緒させてください」

 ぱぁっと顔を綻ばせるオリヴィアを、可愛いなぁとニコニコしながら見つめるレスター。



 別の日。

 オリヴィアの部屋のソファーに座ってくつろぐ二人。

「ねぇレスター。あなたには睡眠は必要ないのかしら? 死霊と言っても感情や思考力があるのだから、疲れてしまわない?」

「そう言われると、眠くなってきた気が……」 

「本当? それなら少し休んで」

 自分の膝をポンポンと叩いて膝枕を勧める。

「え……」

 顔を赤くして躊躇うも、せっかくなのでお言葉に甘えることに。 

 ごろんと寝転がって、あまりの至福さにうとうとし始める。

 数分で寝息をたてて眠った。

 オリヴィアは無防備な寝顔を眺める。

 飽きるまで眺めていようとひたすら眺め続けて、結局飽きることはなかった。



 また別の日。


 神殿でオリヴィアが怪我人を癒す姿を眺めるレスター。

 若い男性の腕を真剣な表情で癒す姿に、ちょっと羨ましくなる。

「私が君に怪我を癒してもらえる日はもう一生来ないのだと思ったら、少し寂しくなりました」

 オリヴィアは、眉尻を下げるレスターに胸がキュッとなる。


 翌日。

 レスターは書類仕事をしていて、指先を紙にひっかけた。

 痛みはないけど、じわっと血が滲んでくる。

 あれ? 血が出た……と不思議に思いながらキズテープを貼った。


 仕事後、一緒に夕食をとる二人。

「そういえば……」

 レスターはまだ傷がうっすら残っている指先を見せた。

 驚きつつ、癒しの光で治してくれるオリヴィアに、また怪我をしたら癒してくださいとお願いする。

「ええ、もちろん」

 喜んで癒すけど、心配だからできるだけ怪我はしないでねと言われ、もう死んでるのに心配してもらえるなんてと、レスターはちょっとだけ泣いた。


 

 オリヴィアが願うだけで、レスターには人間らしい部分が増えていった。

 人間の姿をしている時のレスターの、普通の人間と違う部分ってどこだろう……? とオリヴィアが探しても見つからなくなる日は、わりとすぐ来る。


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[良い点] レスターが霊と化したがゆえの純愛 [気になる点] 生身の人間と変わらなくなったり、子供なんか作ったりしたらこの作品の個性が台無しなような… [一言] >楽に死なせてやるだなんて癪だ。 せめ…
[良い点] なんだかんだで主役の二人が幸せな結末を迎えられてよかったです [一言] 王子と聖女()が畜生にも劣る存在すぎてまあまあ凄惨な死に方なのに物足りなく見えてしまう(笑)
[一言] 外道なのに、好き勝手してきたツケは払わずに、お亡くなりになって しまったわけで。 短いけれど、幸せの絶頂で死ねたのだから、外道達は幸福な人生だった よなぁと思いました。生きてても後は不幸だけ…
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