8.魔女の小部屋
「水晶?知らん」
「あ、そう…一応、このあたりに落ちてるはずなんだけど」
駄目もとでも聞いてみて損したと苦笑しつつ、口いっぱいに特性スープを頬張るフロイドに両手で拳大の丸を作ってみせる。が、やはり知らんと素気なく一蹴される。
まあほとんど寝ていた彼が知るはずもないのだが、あまりの即答具合に今度こそがっくりと肩を落とした。
幸い綺麗に血が落ちたシャツを見苦しくない程度に繕い、ついでに屋敷中を掃除し終える頃にはフロイドの酷い熱は幾分か良くなっていた。
目醒めて間もなくスープの鍋を空にした彼は、今は一口大に切っておいた果実へと手を伸ばしているのだから凄まじい回復力である。
用意したそれらがとんでもないスピードで口に吸い込まれていくわりに食べ方が綺麗なのは流石聖杯、といったところか。
「魔道具か?」
「ええ、通信機なんだけど見当たらないの」
ユスティノが秘密裏に残したあの通信機さえあれば西の国の様子がわかるのに床や家具の下、どこを探しても見当たらないのだ。
昨夜、地震で飛び起きた際に重たいものが転がる音を聞いたのでどこかに転がっていったはずなのに。
友人たちの安否も気になるし、なにより西の国のためにも隠しキャラで生存が確実なユスティノ卿に東の聖杯の保護を頼まなければ。
「そこの本棚に魔道具の心当たりは?」
うんうんと唸るサティアを横目に最後の一切れを口に放り込んだフロイドはくるりと部屋を見回し、そして、ある方向を指差した。
「魔道具じゃなければ魔石でも、君以外の誰かが魔法を使ったとか。魔力に関わることなら何でもいい。心当たりは?」
「いえ、そういった類のものは何もないはずよ」
ユスティノのお陰でこの鉄籠には便利な魔道具が溢れている。しかし、そのどれも生活に必要ないわば家電のようなもので、本棚に置いて使う趣向品はなかった。
それに僅かな隙もなく本が詰まったそこにはどう見ても魔道具を置くスペースは残されていない。
「なら、その辺りだろう。強い魔法の気配がする」
「魔法の気配って?」
「そのままの意味だ。魔法を使えば魔力の残滓が残るように、魔道具も籠められた魔力でわかる」
魔力の残滓については学園の講義でも耳にしたことがあるが、あくまで探知機を用いて確認するものだったはず。
ただ、それが肉眼で見えると言うならば、昨夜この屋敷に掛けられた保護魔法を見抜いたことにも説明がつく。
「生憎、魔力を使わない黒魔術は痕跡が残らないが…これだろうな」
果実まですっかり食べ終えたフロイドは本棚へ歩み寄ると、迷いなく一冊の分厚い本へと手を伸ばした。
深い緑の装丁に金で箔押しされたタイトルが美しいその本は古代語で綴られているようだ。
サティアにはまるきり読めない背表紙の金字を長い指がするりとなぞる。
「…え?」
音もなく奥へと吸い込まれていく緑の装丁。
次の瞬間、溶けるように本棚が消えるのを、サティアは呆然と見つめた。
「『真実』か。伝説の魔女にしてはやる気のないカラクリだ」
「…貴方、古代語も読めるの」
「これでも魔道具師の端くれだからな」
成程、魔道具は古語を用いた魔法陣を刻むことで作られる。
魔道具が貴族の間で非常に高値でやり取りされることが多いのは、言わずもがな古代語を理解するものが少ない故である。
世界樹に選ばれた聖杯で、恐らく貴族で、高身長で顔が良く、剣の腕にも恵まれ、類まれな魔道具師の才まで持ち合わせているときた。
東の国ではさぞや女性たちに人気だったことだろう。
「ちなみにその辺の魔道具もあらかた俺の発明品だ」
ここまでハイスペックだともはや嫌味ではなかろうか。
一体誰だ、この男をナレ死させたのは。
サティアは口許に乾いた笑みを浮かべ、もう何を言われても驚くまいと心に誓った。
「地下室、かしら」
「にしては相当深いぞ」
本棚の向こうは当然壁ではなく、深い闇の奥底へと薄気味悪い階段が伸びていた。
その遥か階下から一定の間隔で聞こえてくる鈍い音に、どちらともなく顔を見合わせた。
「通信機、転がり落ちてないか?」
「…そうよね」
「随分と暗いな」
「無理せず、駄目なら戻りましょう。一応貴方は病み上がりなのだし」
「外の情報はできるだけ早く知りたい。それにこの先が伝説の魔女の隠れ家なら、森を抜けるのに使える物がひとつくらいはあるんじゃないか?」
「そ、そうかもしれないけど…」
前を行くフロイドが携えるランプの小さな灯りは、ふとした瞬間に消えてしまいそうで心許ない。
暗い場所は得意ではない。
闇ギルドに黒魔術、嫌な記憶は大抵闇と共にあった。
頼りない明かりを失えばきっと、この暗闇に呑まれてしまうと思うほどには、苦手なのだ。
「どうせならもっとちゃんと掴め」
気がつけば奈落へと続く階段を降りる足が止まって、仄かに光るグレーの瞳がこちらを向いている。
「…え?」
「だから、袖。怖いならそう言え」
恐怖のあまり思わず前をゆくフロイドの袖を摘んでいたらしく、喉の奥で笑われた。
「ほら」
けれど、そこに嘲るような色はなかった。
その言葉に甘え、差し出された腕を遠慮なく握りこむと、シャツ越しに伝わる温もりのお陰か呼吸が楽になった気がした。
「…ありがとう」
「ん」
ベッドルームがある二階から一階であろう部分を通り越しても、階段はひたすらに闇へと伸びていた。
どれだけ階段を降りたのか、前をゆくフロイドが漸く脚を止めた。
隠し扉から差し込む光が見えなくなって随分と久しく、恐らく地下数十メートルはあるだろう階段の終わりが見えたたためだ。
ベッドサイドから引っ剥がしてきた小振りなランプを翳すと、途切れた段差の先に可愛らしいアンティーク調の扉が見えた。
フロイドは注意深く扉の向こうの気配を探って、ドアノブへと手を掛ける、が。
「開かないな」
「鍵が掛かっている、ってわけでもなさそうね」
「ああ。鍵の音もしないし、魔術の類だろう」
ドアノブがピクリとも回らない上に扉は引いても押しても開かず、フロイドが多少乱暴に扱ってみても軋みすらしない。
この分では蹴破ることも出来まい。
「私が試すわ」
「危険はないと思うが、気をつけろ」
「…ええ」
先程まで腕を借りていたからか、サティアを気遣う言葉がなんだか妙にこそばゆい。
ただ、今はときめいている場合ではない。
小さく咳払いをして、扉の前に立った。
まずは、何とはなしに扉に触れてみる。
扉の向こうのからは特段嫌なものは感じないので、彼の言った通り質の悪い罠ではなさそうだ。
試すと言っても特に考えがあるわけでもなく、先刻のフロイドを真似て適当に模様をなぞってみる。
当然だが、何も起こらない。
次いで妙に温い、花の蕾を象ったドアノブに手を掛ける。
「…あれ?」
サティアがドアノブを握ったその時、小気味よい音が響いた。
あまりの呆気なさに手を離すと、蕾の形をしていたドアノブがみるみるうちに花開いていく。
それだけじゃなかった。
気づけば色褪せた扉いっぱいに蔦が伸びて、あちらこちらに黒バラを覗かせている。
蔦は縦横無尽に扉を埋め尽くすと、ついに行き場がなくなって絵から飛び出す。
幾重もの嶌が絡まり合ってポーチライトへと変わる様は、思わず見惚れてしまうほど幻想的な光景だった。
「なるほど、黒魔術師しか開けない扉か」
なるほど伝説の魔女と言われるだけあって、中々良いセンスだ。
この仕組みを作ったのが私では、こうは行くまい。
「君は下がっていろ」
「え?危険はなさそうだし大丈夫よ」
「ああは言ったが、何があるかわからない。ここで君を失っては、困るんだ」
「そ、そう…?」
この扉の先にも黒魔術師しか解けない仕掛けがあるかもしれないし、最悪帰れなくなる可能性があるという話だ。
そこに他意がないことはわかっているのに、なぜか妙に言葉に詰まった。
元来の性格やサティアとしての生い立ちもあって、公爵家令嬢のくせしてこの手の扱いには慣れていないのだ。
「開けるぞ」
「ええ」
不本意にも、出会ってまだ1日と経たないこの男に気を許しかけている。
そんなこと、容姿がすこぶる好みであることを差し引いても、少し前の自分ならあり得ないはずなのに。
聖杯というのは、皆こうも人たらしなのだろうか。
…そうかもしれない。
脳裏を過った親友の無邪気な笑顔に、サティアは本日何度目かの深いため息をついた。