7.Re:Birth
妙な息苦しさで、ゆっくりと意識が浮上する。
まだ重たい瞼を少しあげると、ベッドのすぐそばにある窓から明るんだ東の空が覗いていた。
昨夜の記憶は魔物の大群を望む窓辺で途切れていたが、無意識にもベッドに潜り込む余力は残っていたらしい。
石鹸の香るシーツに沈む身体は泥のように重たくて、指先ひとつ動かすのすら億劫だった。
(あと半月も残ってないわね)
魔物たちは鉄籠を去ったようで、森は来た時と同じように静けさに包まれている。
星の影が透ける空をぼんやりと眺めていると、瞼が勝手に落ちてくる。
もう永らく黒魔術を使っていなかったからか、寿命が底をつきかけているからか、ひどい眠気は一向に去りそうにない。
講義に寝坊したら怒られるのにと考えて、やめた。
怒られるも何も、もう全て終わったことだ。
(彼は、大丈夫だったのかしら…)
瞼の裏に鮮やかに蘇る風に踊る黒髪と、軽やかに宙を舞う青の剣。
彼がその背丈より遥かに大きな魔物の胸を一突きにする瞬間は、いまでもハッキリと覚えている。
そして何より、トロールが膝をついて倒れるまでの数瞬。
『よくやった』
グレーの瞳を僅かに細めた彼が音もなく紡いだ言葉は、心の奥深いところを刺していった。
(よくやった、か…)
黒魔術を褒めたのは、彼が最初で最後だ。
亡き父はサティアがどんなに難しい任務を達成しても当然褒めることはなかったし、学院で出会った友人たちは寿命を削る黒魔術を良しとしなかった。
勿論友人たちは心配ゆえのことなのは分かっているし、褒めてほしいと思ったこともない。
それでも昨夜のフロイドの言葉があんなにも胸を震わせたのは。
(黒魔術師であることも含めて、認められた気がした…なんてね)
どうせ、もう二度と会うことはない人だと勝手に浮き立つ心に釘を刺す。
魔物が去ったということは、世界樹は無事。
魔物に襲われる心配もない彼ならば森を抜けるのは簡単だ。
夜半にここを出たなら、そろそろ西の国につく頃だろうか。
原作通りなら昨夜滅びていたはずの、西の国へ。
もう、未来を変えたことに後悔はなかった。
むしろ『サティア』に生まれたことこそが昨日のためだったのだとすら思う。
だってハッピーエンドの翌日に世界樹が枯れるなんて、あんまりじゃないか。
段々と瞼が開かなくなって、意識が遠のく。
(今後のことは、起きてから考えましょう)
どのみちもう祈ることしか出来ないのだから。
木立の隙間から近づく朝日の気配から逃れて寝返りをうった先で、何かに触れた気がした。
「…?」
ベッドにしては固くやけに温かい、否、熱い何か。
それはサティアが動いたことで、居心地悪そうに身動ぐ。
そして。
「…ん…」
耳元で聞こえた、掠れた低い声に一気に眠気が吹き飛んだ。
恐る恐る目を開けた先では、端正な作りの顔が苦しげに眉を寄せている。
混じり気のない黒髪と、上気した白磁の肌。
印象的な色彩の瞳こそ隠れているが、長い睫毛に縁取られた切れ長の目とすっと通った凛々しい鼻筋は、見間違えるわけがない。
サティアを胸に抱いて眠るのは、とうにここを去ったはずの東の聖杯フロイド・ベネットその人だった。
「…は、はあああああ!?」
ピピ、と軽快な音を立てる魔道具を取り、サティアは眉を寄せる。
「酷い熱じゃない」
「…言われなくても分かっている」
頬を真っ赤にしてなお不貞腐れた様子のフロイドにサティアは深い深いため息をついた。
手元の魔道具は前世で言うところの体温計で、4つのランプのうち3つが点灯している。
重篤度を4段階で光って知らせる仕組みになっているそれは、ゲーム内でも定番の看病イベントで登場したものだ。
最も危険度が高いのが4つのランプが点灯している時なので、フロイドはかなりの高熱ということになる。
「通りで寝苦しいと思ったわ。こんなに大きな熱の塊が同じベッドにいるんだもの」
「文句があるなら昨日の自分に言え。人の手を握って離さなかった自分に」
言われてみれば、そのような記憶が蘇ってくるような、ないような。
「で、でも、何で貴方服着てないの!?」
「服は着ている。それとも血塗れのシャツを着ていた方が良かったか?」
フロイドは気怠げにブランケットからスラックスを纏った長い脚を覗かせると、鼻で笑った。
朧気な記憶を辿ればそもそもベッドに引き込んだのは自分。
さらに血なまぐさいベッドという大惨事を思えば、シャツを脱ぐ配慮をみせた彼は褒められるべきかもしれない。
その上風邪の原因が大した治療もできなかった昨晩の怪我に由来することは想像に難くないわけで。
「第一床で寝こけたところを運んでやっただけでも感謝しろ」
「…ああ言えばこう言う…!」
大体自分が悪いのは認めるが、起き抜けにあの顔が目の前にあるなんて、ある種のテロじゃないだろうか。
しかも上裸だ、上裸。
着替えを覗いちゃった、とは理由が違うのだ。
半月もない寿命が縮んだらどうしてくれるのだ。
しかしそんなことを本人に言えるはずもなく、出掛かった文句を無理矢理腹の底へと押し込めた。
「…貴方、食欲は?あるなら適当に食べられそうなものを持ってくるわ」
「ん、ああ…」
話を変えようと選んだ無難な話題だったのだが、グレーの瞳は逡巡したように揺れた。
初対面だろうとお構いなしにズケズケと物を言うフロイドにしては珍しい反応に、少し毒気を抜かれた。
「どうかした?リクエストなら出来る限り応えるけれど」
材料は鉄籠にあるものには限られるが、来たときに確認したパントリーの食材は豊富な取り揃えだった。
シェフが作るような格式高い料理でなければ大丈夫だろう。
けれど、口籠ったあとに小さな声で告げられたのは意外なものだった。
「…野菜スープを」
「野菜スープでいいの?」
「できれば、果物も」
野菜がほろほろと崩れるまで煮詰めたスープと、果実もしくは果実を絞ったジュースはこの世界では病人食の定番だ。
ただし、庶民の、という枕詞がつくが。
(この人東の国の貴族じゃないのかしら)
恐ろしく口は悪いけれど、フロイドのふとした時の所作や身なりからは育ちの良いことが伺えた。
だから勝手に東の国の貴族だろうと想像していたのだ。
しかし、気まずそうに視線を逸らしているところを見るに冗談ではないらしい。
「わかった。作ってくるから、大人しく寝ていて」
「ああ」
フロイドが顔を背けたまま小さく頷く。
その耳が熱とは別の赤みを帯びていることには、気付かなかったふりをした。
野菜スープと言っても、料理という程のものではない。
ただ適当な野菜を適当に細かく切って適当な火加減で煮詰めていくだけの代物だ。
誰でも作れるが、逆に、全てが作り手の技量にかかった究極のレシピとも言えよう。
「さて、と」
気合をいれてワンピースの袖を捲ると早速パントリーから野菜と果物をいくつか見繕って、彩りよくキッチンに並べる。
もちろん隠し味としてスパイスで揉み込んだ一欠片の肉も忘れない。
誰かに振る舞うのは久しぶりだが、野営訓練でも評判だったこの野菜スープには自信があった。
(それにしても、小さな子供みたいな人ね)
具材を選ばず調理も簡単なスープは野営のお供にも最適だが、一般的には幼い子が熱を出したときに食べるもの。
前世でいえばお粥のようなものだろうか。
今も昔も、母の味を知らない私からすれば羨ましい限りだ。
たっぷりと水を張った鍋を火にかけて、一口大に刻んだ具材を放り込めばあとはただ待つだけ。
「待ってる間に洗濯…より、着替えが先かしら」
ああ、でもここに幽閉されたのは伝説の魔女と私だけ。男物の服なんてあるだろうか。
下手に探すよりは血を洗濯して繕ってしまう方が早いかもしれない。
ベッドサイドに脱ぎ捨てられたシャツの惨状を思い出してため息を零す口許は、緩やかな弧を描く。
(やっぱり私、こっちのほうが向いてるのよね)
ユスティノには悪いが、まだゆっくり過ごせそうにない。
悠々自適な幽閉生活よりも、何かに奔走している方が楽しい性格なのだからこればっかりは仕方があるまい。
それに、残された僅かな時を誰かと共有できると思うと、気分はそう悪くはなかった。
それがあの綺麗な人ならば尚の事。
「さーて、まずは洗濯といきますか!」
まだ私に出来ることはある。
ならば残り半月、精々足掻いてやろうじゃないか。