6.世界の夜明け
(…逃げたか)
フロイドは走り去っていく女の後ろ姿から、そっと視線を外した。
殊の外美しいアイスブルーの髪が揺れるその華奢な背中を、追いかけようとは思わなかった。
ただ、死期の近い魔女にしては綺麗なその女を、ほんの少しでも信じてみようと思った自分が馬鹿らしくなっただけだ。
(猫騙しでもないよりはマシだったんだが、所詮は魔女だな)
否、卑しい生まれの自分は魔女の同情にすら値しないのかもしれない。
自嘲気味に唇の端を歪め、これも随分と前から癖になってしまったと他人事のように思う。
棍棒を力任せに振り回す魔物を見据え、まだ手には馴染まない無駄に重たい剣を構え直す。
少し前から世界樹の反応が鈍っているのもあり、直に鉄柵は突破されるだろう。
一人で対処できるだろうか。
トロールの心臓は2つ。
倒すには頭と右胸にあるそれらを両方破壊する必要がある。
世界樹の力が弱まるのと反比例して魔物たちの気配は力強さを増しているのに、気だるさが残る体は本調子には程遠い。
(それでも、まだ死ぬわけにはいかない)
フロイドは喉を鳴らして、冷や汗の吹き出す額を拭った。
仮にトロールを倒せても、ごまんといる小物まで相手にするのは厳しい。
さて、あとは年老いた世界樹がどこまで持ちこたえてくれるか。
「頼むから、まだ枯れるなよ」
遂に鉄柵の断末魔とともにトロールがゆっくりと、しかし、確実にこちら側へと足を踏み入れる。
そして間もなく、ギラギラと光る血に飢えた双眸が獲物を見つけた。
来る。
確信めいた予感に高く跳躍した次の瞬間、棍棒が地面を抉りまさに自分のいたところが巨大なクレーターと化す。
威力はもちろん、それまでの緩慢な動きからは想像だにしなかった凄まじい速さに内心舌を巻いた。
長期戦になれば、こちらが持たない。
体制を持ち直す前に、心臓のひとつでも潰しておきたいところだが。
(駄目だ、届かない!)
振り上げた剣先が僅かに頭部をかすって、難なく棍棒に弾かれる。
思わず歯噛みした、その時。
「下がって!」
凛とした女の声とともに、耳のそばを風きり音が通り過ぎた。
トロールの大絶叫が空気をビリビリと揺らす。
「な、にが…」
呆然と見上げた先では、黒い矢がトロールの頭を貫いている。
その矢は、瞬きの間に溶けるように消えてしまったが、けして見間違いではなかった。
まさか、逃げたはずでは。
期待するなと昏く囁く声を無視して振り向けば、屋敷の2階、開け放たれた窓に魔女はいた。
白い光沢を帯びたワンピースをはためかせ、窓から身を乗り出して弓を引くその姿は、黒魔術師のくせしていっそ神々しさすら覚える。
魔物の大群を前に震えていたのが嘘のように、その強い輝きを放つサファイアは臆することなくトロールを映していた。
「ハッ…逃げる気なし、か」
自然と上がる口角をそのままに巨大な魔物へと向き直れば、全ての雑音が遠のいていく。
頭の天辺から爪先まで神経が研ぎ澄まされて、あれだけ重たかった剣が紙のように軽い。
それにしても、これが猫騙しか。
「上等だ、魔女」
心臓が頭の大半を占めるトロールは知能が低い。
だから、敵が複数いるときは直近でダメージを与えたものを狙う習性がある。
どれだけ近くに他の敵がいても、それは変わらない。
トロールの注意が完全にフロイドから移ったことを確認してから、今度は地面へと深く沈み込む。
狙いは、右胸の心臓だけでいい。
剣先をぴたりと合わせて地面を蹴ると、トロール相手にまるで負ける気がしなかった。
倒れたトロールを横目に矢を何本か鉄柵へと放って、ようやくサティアは弓をおろした。
念の為牽制しものの、小型の魔物たちが鉄柵を越える様子はない。
世界樹は無事なのだろう。
(なんとか間に合った…)
トロールと対峙する場合は遠距離から頭部の心臓を破壊し、関心が逸れたところでもう一つの心臓を近接攻撃する。
学院で習ったセオリー通りに戦ったとはいえ、たった二人で倒せたのは幸運だった。
もう大丈夫だ。そう思った途端に、足元がふらついて覚束なくなる。
(…眠たい…)
それが寿命が削られる反動だと気づいた時にはもう瞼を開けていることすら難しかった。
ずいぶんと慣れたはずの感覚だが、今回はひどく抗い難い。
きっと、死に近づきすぎたからだろう。
体感では、あと半月持てば良い方だ。
(でも、これで続編は回避できたはず…)
ぐらりと大きく揺れる視界に、窓に浮かぶ真っ赤な三日月が過った。
絶対に続編通りになんてしてやるものか。
私の大切な人たちは誰も殺させない。
ざまあみろと笑って、サティアは押し寄せる眠気に目を閉じる。
「おい、魔女どこにいる___」
遠くで聞き慣れない声がする。
けれどもう、半分闇に沈んた意識では考えることすら億劫で。
「こんな所で寝るな。せめて窓くらい閉めたらどうなんだ」
魔物に囲まれてるんだぞ、と続くその声はぶっきらぼうだけど、どうしてか優しく聞こえて、微睡みを揺蕩う気持ちよさも相俟ってくすくすと笑う。
(声まで私好みなのよね、この人…)
「ハァ?意味のわからないことを言ってないで、起きろ」
フロイドが攻略対象じゃなくて本当によかった。
スチルなんてあろうものなら、貢ぎすぎて前世の私は破産していたに違いない。
そこだけは制作会社に感謝してやらねば。
「だから、寝るな。まだお前の名前を聞いてない」
「…?」
名前。
そうだ、名前だ。
黒魔術師の契約はその名を媒介すると、昔この世界の父がものすごく悪い顔で教えてくれた。
「ん…内緒…」
「西の国を助けて欲しいんじゃないのか」
呆れた声だ。でも、怒っているわけではないみたい。
「わたし、すぐ死んじゃうから」
どちらかが死んだ時点で契約は破棄となるとも父は言った。
だから彼は闇ギルドに関わる沢山の人間を殺してきたわけで。
つまり、いまのサティアがこの人を契約で縛ったところで意味がないのだ。
「もし、死なないとしたら___」
そこで何かを言い淀んで、音は途切れた。
少しして戸惑いを含んだため息が落ちる。
「いや、何でもない」
もし生き残れるとしたら。
サティアだって、それを考えたことがないわけじゃなかった。
けれど学院で愛するキャラクターたちと過ごしていた時は、原作を変えてまで生き残ろうとは思えなかったのだ。
だって、彼らはサティアがいなくても幸せになれると信じて疑わなかったから。
私は、あと半月と持たずにこの鉄籠で逝く。
それがハーレムエンドを迎える『サティア・エシャレット公爵令嬢』の運命だ。
でも、もしそれ以外の道が許されるなら?
今からでも運命に抗うのが遅くないならば。
「わたしが、守ってあげるのに」
エマも、ユスティノも、学院の友人たちも。
Re:Birthというこの馬鹿げた世界で、みんながちゃんと幸せになれるように、ずっと守ってあげたいのに。
ゲームの世界だと割り切ったつもりで、全然駄目だった。
ずっと『サティア』であろうとしてきたのに土壇場で続編のシナリオを変えてしまうくらいには、この世界の人を知りすぎた。
「そうか、残念だ」
ああ、笑った。
目を閉じたまま、そんな気がした。
頬にかかる髪を梳いてゆく指先がとても心地よい。
(あったかい…)
鉄籠に来たら、こうして誰かの温もりを感じることはもうないと思っていた。
だからだろうか、離れていくその手がやけに名残惜しい。
「もういいからゆっくり休め、魔女」
ふわりと身体が浮き上がる感覚を最後に、サティアは今度こそ意識を手放す。
最後に聞こえたそれは、ただひたすらに優しい声だった。