5.東の聖杯 フロイド・ベネット
『世界樹の聖杯 Re:Birth』
通称、Re:Birth。
大ヒットした乙女ゲーム『世界樹の聖杯』の続編としてリリースされたそれは、前作とは対照的に恐ろしく評判が悪かった。
学園モノから一転、ダークファンタジーに路線変更されたRe:Birthは、プロローグのほんの数行で前作のキャラクターを尽く殺したことで、乙女ゲーム界に新たな伝説を作った。
当然、悪い意味で。
何も知らずに手を出したファンは揃って推しが死ぬという苦行に耐えきれず、そのほとんどが序盤で脱落したといわれるほどの鬱ゲー。
私も、その一人だったのだろうか?
光が収まってから手を離して、裂けた服から覗く健康な肌に安堵する。
あれだけ深かった傷が綺麗に塞がっていた。
しかし。
「おい、まだ痛いんだが。手を抜いたのか」
「あなたね…対価をとらないんだから、文句言わないで」
ほら立って、と一切の文句を無視して手を差し出すと、小さく舌打ちとともに大きな手が重ねられる。
血の気が戻ったわけではない手はひんやりと冷たい。
それもそのはず、先の黒魔術はただ傷を塞いだだけなのだ。
だからダメージもそのまま残っているはずなのだが、減らず口を叩ける程度には元気で密かに息をついた。
「伝説の魔女のくせに気前が悪いな」
「別人ですから」
「なら死にかけの黒魔術師か?契約して損した」
「はあああ?」
思わず握りしめた拳を振り上げそうになって、堪えた。
相手は仮にも聖杯なのだ。
この一撃で世界樹に何かあってはたまらない。
「ま、ひとまず死の淵から抜け出せたらしい。一応感謝する、魔女」
一応って。
流石に小突くくらいは許されるかと拳を握り締め、しかし、次の瞬間には怒りを忘れてしまった。
立ち上がったフロイドが粗野な動作で服についた泥を払う。
服の上からでも分かる、その程よい筋肉に覆われたしなやかな体躯に、黒い髪がよく映える白雪のような肌。
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳に、まだ少し青褪めた形の良い唇も本来は恐らく薔薇色だろうか。
全てが繊細な彫刻の如く完成していた。
(プロローグでナレ死するキャラとは思えない完成度ね)
東の聖杯、フロイド・ベネットは文句なしの美丈夫だった。
もしスチルの1枚でもあれば、確実に推しの序列が変わっていただろうと真面目に考えるくらいには。
口をぽかんと開けてその美貌を眺めていると、胡乱気な視線とぶつかる。
虹彩に極彩色が踊る珍しいグレーの瞳は、見れば見るほど吸い込まれるような、不思議な感覚だ。
「お前、寿命は?」
「貴方にいうわけないでしょう」
「…その頭は飾りか?」
前言撤回。
これは容姿を差し引いてなお余りある性格の悪さだ。
(…これがエマと同じ聖杯って、流石に世界樹ストライクゾーンが広すぎない?)
天真爛漫を絵に描いた優しい少女の対がこの男とは。
サティアが口元を引きつらせたその時、髪をさらっていく風に魔物の気配が交じった。
遠吠えが止んでも、魔物たちが消えたわけではないのだ。
「魔女、もう一度聞くが残り寿命はいくらだ」
今度はサティアが答える前に、あたり一帯にぶわりと嫌な空気が溢れた。
フロイドが手慣れた仕草で剣を抜く。
彼の鋭い視線の先では、木々をなぎ倒して巨大な魔物が姿を表したところだった。
緑の皮膚を持つ巨大な二足歩行の魔物、トロールだ。
それに、鉄柵の向こうに散らばる無数の小さな赤い光は。
(あれ、全部魔物…?)
それら全てが月明かりを跳ね返す魔物たちの瞳だと気づいた途端、足が竦んだ。
「どうして…ここには近づいてこないはずじゃ」
「世界樹の力が弱まってるからだろう」
来るぞ、と小さく唸る。
フロイドの言葉通り、トロールはその巨体を揺らし、ひどい臭気を撒き散らしながら真っ直ぐ鉄籠へと近づいてくる。
「っ…」
そして、間もなく鉄籠へとたどり着いたトロールは巨大な棍棒を振り上げる。
ガンッ
ガァン
ガァァン
重たい金属音にあわせて、みるみるうちに鉄柵がゆがんでいく。
聖杯の意志を汲む鉄柵は元の形へ戻ろうとしているように見えるが、分が悪すぎた。
「くそ、もう持たない…!」
サティアを庇うように、フロイドが一歩踏み出した。
「そんな体で、無茶だわ!」
「わかってる。いい加減答えろ、お前の援護は望めるのか?」
繰り返し聞かれる寿命の意味がようやくわかった。
どの程度の戦力になるかを聞かれていたのだ。
「…猫騙し程度なら」
「本当に役に立たない魔女だな」
それには返す言葉もなかった。
残りの寿命では広域の攻撃魔術は使えない。
できるとしたら、ほんのちょっと驚かせるくらいだろうか。
しかし、ちらりとこちらを振り返った横顔も、まだ僅かに苦しげに歪んでいた。
(彼を戦わせてはダメだわ)
次に怪我を負えば、もうサティアに彼を助ける術はない。
「合図をしたら、全力で逃げろ。あの屋敷なら、小物相手にはしばらくは持つだろう」
確かにユスティノの保護魔法ならきっとそれなりの時間を持ちこたえてくれるだろう。
聖杯程ではないが、神官も世界樹の力を借りられるのだ。
(でも、どうして保護魔法のことが分かったのかしら…いいえ、今はそんなの気にしてる場合じゃない)
フロイドが掲げる剣が月明かりを跳ね返して鈍く光る。
その薄い青を帯びた刃は恐らく、対魔物用の聖物。
「っ、あなたはどうするつもり?」
「アイツだけは倒す。あれ相手では一刻と保たず屋敷が倒壊するだろうしな」
顎でしゃくってみせる先には、壊れる寸前の鉄柵とトロールの姿。
やはり、癒えきっていない体で戦うつもりなのだ。
「小物は恐らく柵が完全に壊れるまで入ってこれない。ほんの一瞬でいい、奴の気を逸らしてくれ」
あとは俺が何とかする。
そう言って向き直った背中には、もう時間はほとんど残されていないと書いてあった。
(例え聖物でも一振りの剣では無謀だわ)
とはいえ、トロールをなんとかしないことには、先がないのは事実。
迷ったのは、ほんの一瞬だった。
「そんなの、嫌に決まってるわ」
東の聖杯をここで殺すわけにはいかない。
ならば、選択肢はひとつだった。