暁の頃
まだ陽も顔を出さぬ、朝も早い時刻。
「――パルスと名乗っていた男の供述通り……封印が解除されたと思われる日と前後の日の管理番宅から、服薬時に意識を混濁させる成分が含まれた薬の包みが見付かりました」
白亜の屋敷の執務室で、ニコルは秘書官ディノの報告を聞いていた。
今回の件ではリルフィーナに同行していた彼も負傷していたが、治療を受けて回復している。
「無意識のうちに行動を刷り込み、本人や周囲に『ヴァンダリスの悪魔』の封印を解いたと気付かせぬようダミーまで用意させていたようです」
町医者として十数年、この都市と魔術師に慣れ親しんできたのは、全てこの時のためだったということか。ともあれ、殆ど休みなく働いているディノを、ニコルは労った。
「ありがとうございます、あなたはもう休んで下さい」
「いえ! ニコル様もお忙しくなるでしょうし、今自分が休む訳には……」
「そうなれば尚更、ですよ」
真面目すぎるディノに、眉尻を下げるニコル。
「頼りになるあなたには、大事な時に頑張って頂かないといけませんから」
「ニ、ニコル様……」
感じ入った様子のディノを下がらせると、机の前にはひとりの女性が残った。
「こんなことになるなんてね」
流石のセリも、神妙な顔をしている。
主治医が患者を殺めるなんて、医療の現場から見てもあってはならないことだろう。まして、始めからそれを狙ってやっていたのなら。
「医師関係から身元を追って貰ってもいますが、サムサラに至るまでの経歴も恐らく偽りかと。パルスというのも、偽名でしょうね」
「そこまで徹底してた割に、最後でミスったのかな」
「どうでしょう? どこまでが彼の予定にあったのか、推し量る術もありませんし」
「リルに自分のやったことを教えたのも?」
セリの問い掛けに、しばしの沈黙が落ちる。
その静寂を押し遣って、銀の髪の魔術師は返した。
「あの子にはそういう雰囲気がありませんか? つい、心に掛かっていることを、告白してしまいたくなるような」
「んー、まあ分かります。私にとっては可愛い妹みたいなモンだけど」
何かを赦して欲しいと、請うてしまいたくなるような感覚とでも言えばいいのか。彼女がそれを許してくれるかは、また別の話だが。
それはそれとして。
「我々の預かり知らぬところで、何かが起きています。それは、この世界を揺るがしかねない事態を招く可能性もある」
ニコルは和らげていた表情を引き締め、告げた。
死者たちの国の神、それが何を表すのかも今は分からない。けれど『神』と呼ばれるものが関わるなら、世界にとっても大事になる可能性は否定できない。
「意図したものであろうとなかろうと、生じた大きなうねりはそうそう止められるものではありません。そのうねりは、あの子をも呑み込まんとしている」
窓から差し込んできた朝日が、室内の表情を変えていく。
「セリ、お願いがあるのです」
魔術師の言葉に、女性は口角を上げてにっと笑う。
「分かってるよ、先生」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
早朝の廊下に、うろうろと浮かぶ小さな影があった。
「どうしたの、猫ちゃん」
セリが声を掛けると、影――黒猫のマスコットの姿をした悪魔がくわっと振り返る。
『誰が猫ちゃんだ!? 俺様は大悪魔だぞ! こんな姿にされても、お前なんぞに猫ちゃん呼ばわりされる謂れはないわ!』
「はいはい、じゃあお名前教えてくれるかな?」
『ぐぅ……!』
セリのまるで子供をあしらうかのような様子に歯噛みしながら、悪魔は『……ノーグだ』と答えた。
「ノーグちゃんね。ところであんたのご主人様はまだ寝てる?」
『ノーグちゃんじゃない、ノーグ様だ!』
「はいはい、ノーグ様ね。それで、リルは?」
『くそっ……なんだこの女は……』
自分が恐ろしい悪魔だということを知らない筈がないのに、全く意に介していないセリの様子に、悪魔は悪態をつく。
が、問答を繰り返すのも不毛なので、今は諦めた。
『うとうとしたり、起きたりしていたぞ。今も起きてるんじゃないか』
「あんたは寝なくて大丈夫なの?」
『人間とは違うからな』
悪魔は毎日眠る必要はないし、そもそも人間とは眠りの概念も違う。それを聞いたセリは、興味深げに悪魔を眺めている。
「ふーん。そんでリルに気を遣ってお散歩でもしてたってことか」
『どうして俺様が、あいつの気を遣う必要があるんだ……』
一時的にとんでもない力を発揮して自分をねじ伏せたとはいえ、ほんの少女であるリルフィーナに平伏するのはまだ不服がある様子。
『そりゃ寝付けなくて沈んでるところを見りゃ、気が滅入るけどな……それはそれとして、俺様は気分よく、この薄暗い廊下を徘徊していたかっただけだぞ』
「そっかぁ~、まあいいや。ついでだし付き合ってよ」
『んなっ!?』
悪魔の首根っこを掴むと、セリはリルフィーナの部屋へ向かった。
そっとノックしたセリが部屋に入ると、リルフィーナはベッドの縁に添うように横たわり、ブランケットに巻かれていた。
伏し目がちだが、意識は覚醒しているようだ。
その顔は、少しやつれて見える。
「おはよう、リル。少しは寝られた?」
「……あんまり」
自嘲気味な、力のない声が漏れる。リルフィーナは緩慢な動作で身を起こすと、俯きがちにセリに顔を向けた。
「……なんだか、男性不信になりそう。男の人がみんなそういう訳じゃないって、思ってるけど」
「ん? もしかして、今回の件以外にもなんかあった?」
「抜けてきたギルドでね……」
リルフィーナはライアンとのことを、掻い摘んで話した。そういえば、セリもライアンと一緒の時に一度二度会ったことがある筈だ。
「ああ、ライアンってあんたにベッタリだった奴!」
「そ、そんなにベッタリだった?」
「あいつ……『リルは俺が守る!』みたいな顔しといて、舐めた真似を……今度会ったら捻り潰してやる」
滅茶苦茶真顔で言うセリに、リルフィーナの方が焦ってしまう。
「そ、それは洒落にならないから……」
ひとしきりセリを宥めて、少女はふぅと息を吐いた。
『こいつは敵に回したくねぇな……』
傍らで悪魔がボソッと呟いた。
「結局、おままごとみたいな恋で終わっちゃったんだよ。手を繋ぐのがやっとくらいの……」
「清い交際だったのはよかったと思います!」
今度は親指を立ててテンションが上がっている。キスすらしていない関係だったのは、セリ的にはよかったようだ。
「いや、だって可愛いリルにはさ、素敵な恋をして欲しいじゃない。だから浮気男と縁が切れたのも、すぐ離れたのもよかったというか……」
そう言いながら、彼女はぽんとリルフィーナの肩に手を置いた。
「大丈夫よ。これからもあんたには沢山の出会いがあるし、その中に『この人は』って人がいるからさ」
「見当もつかないなぁ……」
「今はそれでいいんだよ」
会話のお陰か、沈んでいた空気が和らいだ。
暖かい部屋、ほっとできる空間。
「少し眠くなってきた?」
「ん……」
目を閉じそうになっているリルフィーナを、セリは促すようにして身を横たえさせた。
そこに、その辺を浮いていた悪魔を掴んで少女に抱かせる。
『ぎぇっ、なにするん……』
「ぬいぐるみのお役目。抱っこして寝ると安心すんのよ」
セリと悪魔の遣り取りに、リルフィーナはクスリと笑う。ゆっくりと目の周りに纏わりついてくる眠気に、瞼を落として。
浮かぶのは、親友の顔だ。
「エステル……どうしてるのかな」
奪われた魂に用途があるなら、それまでは無事なのだろうか。魂を肉体から引き離してどうこうするなんて、なかなかない話だから、どんな風になっているのか想像がつかない。
「魂だけなら何も感じてないとか、苦しんでないといいなぁ……」
眠気混じりにゆっくりと呟くリルフィーナの頭を、セリは優しく撫でるのだった。




