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エルデン王国の客が帰った日、ハインリヒはクラーラに触れた手が熱く感じ、そして心臓が苦しくておかしくなりそうだった。クラーラに贈り物をして、彼女が微笑んで、彼女を守って、彼女も必死に守ろうとしてくれた今日の出来事が、ハインリヒの頭をぐるぐると駆け巡っていた。
「テオ、私はもうダメだ。ダメな男だ」
「殿下はとっくの昔からダメダメですよ。今に始まった事ではありません」
「お、おまえはいつも容赦がないな」
「殿下の補佐をするのが私の役目ですから。さあ、殿下。今の殿下は何がダメなんですか?ダメならちゃんとすれば良いでしょう?」
テオは昔から優しい口調でハインリヒに厳しく接する。ハインリヒが出来の良い兄と比べられて精神的に病まずに来られたのは、テオが本気でハインリヒと向き合いサポートしてきたお陰である。それでも少しだけハインリヒの性格は歪んでしまったが、彼本来の優しく真っすぐな心は失われなかった。
そんなテオだからこそ、ハインリヒは本音を言えるのだった。
「あいつの、クラーラの事を考えると心が苦しいのだ。ヴェロニカのためを思って今まで邪険に接してきたが、その事をとても悔いている。あれはとても優しく美しい女だ」
「そう思っておられるならちゃんと謝れば良いではないですか?私もずっとクラーラ様に対する態度はクソだと思ってましたよ」
「クソとは不敬な。だが、本当に酷いものだったと思っている。今更だがな」
「本当に今更ですよね。散々酷い事言っておいて好きになってしまうんですから、殿下はどうしようも無いですね」
「すすす、好きとはなんだ!そんな事を言っては」
「はいはい。とりあえずクラーラ様に謝ることから始めましょう。ちゃんと出来ますか?」
「出来るとも!私に出来ない事はない。あいつに謝るくらい朝飯前よ」
「それでしたら、私をクラーラ様だと思って謝ってみてください」
テオにそう言われてハインリヒは謝ろうと口を開いた。開いた所で言葉は出てこない。テオをクラーラだと思うと、途端に全身が熱くなり固まってしまうのだった。
「はあ、やっぱり直ぐ謝りに行くのは無理そうですね。それでは手紙にしたためてみてはどうでしょうか?手紙を渡すだけでしたら殿下のその間抜けな顔をクラーラ様に見せずに済みます」
「間抜けとはなんだ間抜けとは!だが、仕方ない。まずは手紙というのも悪くないな。素晴らしい文面で感動させてくれるわ」
ハインリヒはそう息巻くと早速手紙を書いた。クラーラの事を考えながら、何度も何度も書き直して出来上がった手紙は、翌日に渡す事になった。
彼なりの全力で語彙を引き出して手紙を書き終えたハインリヒは、苦手な外交に行った時よりも疲れている様子だった。そんなハインリヒを見て、テオは彼の成長を喜ぶのだった。
一方のクラーラも今日の出来事を思い出してしまい、装飾作業に身が入らなかった。今までハインリヒに散々な物言いをされてきたが、クラーラは全く心を痛める事もなく、彼に対して興味のひとかけらも持てなかった。
しかしハインリヒに好きな模様を選ばせた時から、ハインリヒという存在が初めて一人の人として認識出来る様になったのだ。
酷い言葉をかけてくるが、クラーラの事を思っての贈り物や、アディーレ姫から守ろうとしてくれた事から、とても優しい人なのだとクラーラは思った。
握ってくれた彼の手の暖かさをクラーラは忘れられなかった。何となくであるが、クラーラはハインリヒを好ましく感じていた。
今まで異性に対してこの様な気持ちを持った事はないので、クラーラはハインリヒを特別に思ったのだった。
しかしクラーラは初めから仮だという事を理解している。ハインリヒがヴェロニカと結婚するまでのつなぎだという事を。それを承知した上で仮の妃になったはずなのに、今はそれがとても苦しく感じた。
頭の中でぐるぐると考えが巡ってしまい、作業に全く集中できなくなったクラーラは、温かい飲み物でも貰って気分を落ち着かせようと思い部屋を出ようとした。
部屋から出るために扉を開けると、何かがぶつかる音と共に男の悲鳴が聞こえた。
「殿下?・・・どうしてこちらに?」
「お、お前のところにエルデン王国の奴が来てないかと思ってな。奴らは大人しく帰ったようだが、そう見せかけただけかもしれない。だから念のため見に来てやったのだ」
ハインリヒはぶつけた額を押さえながらクラーラを見ないように言った。クラーラはストールを羽織っているが、中は夜着を着ているのが分かったので、ハインリヒは恥ずかしくて直視出来なかったのである。
「申し訳ありません殿下。おでこを冷やしますので中に入ってくださいまし」
そう言ってクラーラは扉を開けてハインリヒを部屋の中に招いた。ハインリヒは少し躊躇ったものの、結局クラーラの部屋に入る事にした。
「殿下、今日はウサギの贈り物をありがとうございました。私、今まで貰った物の中で一番嬉しかったです」
クラーラは濡らしたハンカチでハインリヒの額を抑えながら言った。
「そ、そうか。あんな物でそんなに喜ぶとは今までろくな物をもらって来なかったのだろうな」
ハインリヒはとても距離が近いクラーラに動揺して早口で言った。距離が近いとクラーラの香りを感じた。彼女から漂う香りがとても良い匂いに感じ、両手で彼女を抱きしめて思う存分嗅いでみたいと思った。
しかしすぐさま我に返り、変なことを考えるなと自分に言い聞かせ、顔が赤くなっているであろう事を悟られない様にそっぽを向いた。
「いいえ殿下。あのウサギより良いものを貰ったこともありますが、それでも殿下から頂いた物は特別嬉しかったのです。不思議ですね」
「・・・そうか。ならば悩んで送った甲斐があるというものよ」
「あら、悩んでくださったのですか?」
「な、悩んだというか、まあ、あれだ。女に贈り物などあまりしたことがないからな。少し手間取っただけだ」
「そうですか。ありがとうございます」
クラーラは優しく微笑んで言った。ハインリヒは思わず目を合わせてしまった。クラーラの笑顔を見てしまった。蝋燭の明かりの中照らされた彼女は、そこに居るのに消えてしまいそうなほど幻想的だった。
ハインリヒはしばらくクラーラと見つめ合った後、少し下を向いてゆっくりと話しだした。
「お前には酷な事をして来たと思う。仮の妃という屈辱的な役目を負わされて、その上私から嫌味を言われてきた。それでもお前は懐中時計を私好みの柄で装飾して贈ってくれた。私の贈った物も一番嬉しいと言ってくれた。・・・私は愚かだった。お前に酷いことばかり言って。本当にすまない。許してくれとは言わない。だがお前の望むものは全て叶えよう。いや、叶えさせてくれ。私が出来る償いはそれしかないのだ」
クラーラはまさかハインリヒから謝罪を受けるとは思っていなかったので思わず目を見開いた。そして彼女は今までハインリヒから言われた言葉を思い出そうとした。しかしハインリヒから謝って貰わなければならない程酷な事は言われていないのだと判断した。
「殿下、あなたは謝罪をなさる様な事はなさっていません。どうか顔を上げてくださいまし」
「いや、お前に酷い言葉をかけてきた事は間違いない。私を許さなくていい。せめて謝らせてくれ」
「私、殿下からかけられた言葉を思い出してみたのですけど、思い出せないくらい特に何とも思っていないのです。ですから、許すも許さないもないのです」
クラーラにそう言われたハインリヒは、彼女の顔に視線を戻した。無理に言っている様子はない。本心からの言葉だろうとハインリヒは感じた。
「そうか、何とも思わなかったのか。・・・お前は凄いな」
「ええ。昔から私はおべっかを言われても、嫌味を言われても特に何も思わなかったのです。それで心が冷たいのだと噂されている事は知っております」
「違う!お前は違うだろう。心が冷たくなどない。あの様に笑うお前が冷たいものか!」
ハインリヒは思わず力を込めて言い放った。クラーラは突然の大声に少し驚いたが、ほっとした様に笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます殿下。殿下の言葉は私を暖かくしてくださいます。とても嬉しいです」
あれだけ酷い事を言って来たのに、彼女は自分の言葉が嬉しいと言った。ハインリヒはその言葉を聞いて胸が一層苦しくなった。もうクラーラを傷つける様な事は絶対にしていけないと思った。
彼はこれほど自分の行いを悔いた事はない。そして彼女が仮だという事実をとても心苦しく感じた。
「クラーラ。私はお前を好ましく思う。仮の期間が終わるまで心安く過ごせるよう全力を尽くそう」