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クラーラはハインリヒの事は特に興味がなかった。王城で彼女の興味を引いたのは、所々に飾られている陶器の模様だった。それはセルペンティーナという他国の装飾文様で、王妃の好きな文様だという。
創作意欲を刺激されたクラーラは、セルペンティーナの装飾を手鏡に施した。それを王妃に贈ったところ大層喜ばれ、様々な国の文様が載っている本を授与された。
クラーラは毎日その本を眺めた。その様子を見た侍女は、あまり見ない嬉しそうな表情に思わず見惚れた。
クラーラは王太子妃にも、セルペンティーナとは違う文様で装飾を施した手鏡を贈って喜ばれた。気が乗ってきた彼女は、他にも何か違う文様で装飾したいと思い、次はどんなものにするか悩んでいた。そこにちょうどハインリヒが訪れたのである。
「殿下、少しこの本を見てくださいませんか?」
珍しくクラーラの方から話しかけられたハインリヒは驚いて目を見張った。そこには初めて会った時と変わらない美しい大人の女性が立っていた。
ハインリヒはあまりクラーラの方を見ずにそばに寄って本を見た。
「この本がどうしたというのだ」
「この中から好みと思う文様を選んでくださいまし」
「選ぶだと?うーむ、仮の妃のくせに私に手間をかけさせおって」
そう言いながらもハインリヒは結構な厚さのある本をじっくり見て文様を選んだ。そばで見ていたクラーラは、彼の様子に少し驚いていた。クラーラは、ハインリヒの今までの態度から、素直に文様を選ぶような事をしないと思っていたからである。それが目の前にいる彼は、適当に選ぶ事もなく、じっくりと本を最後のページまで目を通していたので、クラーラはハインリヒを意外と真面目な性格なのだなと感じていた。
「これだな。これが一番好みだ」
そう言ってハインリヒは本の左上に載っている文様を指差した。とても可愛らしい魚の文様だった。ただの魚ではない。マンボウである。思わずクラーラは吹き出して笑ってしまった。
「な、何を笑っている!この魚が可笑しいか?この魚は非常に大きくそして優しい魚なのだぞ!?」
ハインリヒはそう言いつつも目の前で声を出して笑うクラーラに釘付けだった。彼女が自分のことで笑ってくれた事に驚き、そしてその美しさに再び心奪われたのである。
「申し訳ございません。確かにこの魚は大きく優しい。殿下にふさわしい魚だと思います」
「そ、そうだろう。私にふさわしいのだ。で、ではな。私はお前と違って忙しいのだ」
そう言ってハインリヒは部屋から急いで出て行った。補佐役のテオがすみませんと言って部屋の扉を閉めて行った。
クラーラは早速マンボウの装飾に取り掛かった。しかし思い出し笑いをしてしまって、なかなか作業が進まなかった。
ハインリヒはその夜からクラーラのことが頭から離れず、なかなか眠れなくなった。目を閉じれば微笑むクラーラのことばかりが浮かび、その度に「私はロリコン」という暗示をかけた。
手紙のやり取りだけで数年会ってないヴェロニカの顔は朧げになり、クラーラの顔の方がはっきりと思い浮かぶことを不甲斐ないと彼は思った。ヴェロニカに申し訳なさを抱きながらも、クラーラの事で胸が苦しくなる事を止められそうになかった。
その後もハインリヒはクラーラの部屋に赴いた。ハインリヒはいつもの嫌味がしどろもどろになっているのに対し、クラーラはいつものように作業に集中しながら「そうですね」と相槌を打つだけだった。
それから数日してクラーラはハインリヒが来る前に彼の部屋を訪れた。彼女は贈り物をする時には、自分から訪れた方が良いと思っているからである。
ハインリヒは初めてのクラーラの訪れに驚愕し、そして初めて贈り物を貰った事にも驚きのあまり礼を言うのも忘れて、時が止まったように動かなくなった。
その後彼はテオが声をかけるまで彼女が部屋を去った事にも気づかなかった。
我に返ったハインリヒが包みを開くと、宝石でマンボウの装飾が施された懐中時計が出てきた。
「うわあ!とても見事な装飾ですね。クラーラ様は連日これを作っていらっしゃったんですね。良かったですね、殿下!」
ハインリヒから言葉は無かった。テオは知っている。ハインリヒがとても嬉しがっている事を。ずっと懐中時計からキラキラした目を離さないハインリヒを、テオは邪魔せずそっとしておく事にした。