第九場 漱石先生、死について考える
明転、漱石は布団に臥して気息奄々、鏡子はそばで正座し、平謝り。
鏡子 どうも、お恥ずかしい所をお見せしました、申し訳ございません(平伏)
漱石 もういいよ、もう
鏡子 申し訳ございません(さらに平伏)
漱石 だからもういいって
鏡子 申し訳・・・
漱石 だからもういいっていってるだろ!
鏡子 (ビクッと反応する)
漱石 うう・・・だから、あれだ、俺も言い方が悪かった。気にするな
鏡子 あなた・・・
漱石 だから頼むから川に飛び込むのだけは勘弁してくれ、お前、熊本にいた時もそれで散々周囲に迷惑かけたろう、な
鏡子 はい、申し訳・・・(言い止めて)はい
しばし静寂。
漱石 熊本か…早いもんだなあ、お前と一緒になってもう二十年になるか。なんだかんだでお前はいいとこのお嬢さんだったからな、苦労もしたろう
鏡子 そんな・・・
漱石 まさかヒステリー起こして身投げしちまう程とは思わなかったがな
鏡子 あの時は・・・その・・・本当にもうし・・・
漱石 いいよ・・・でもな、飛び込むのだけはホント勘弁してほしいんだよ。昔のいやなことを思い出しちまう
鏡子 いやなこと、ですか
漱石 ああ、お前を連れて東京に戻ってきて第一高等学校で英語を教えていた頃な、教え子の一人に「勉強する気がないなら教室に来るな」と怒鳴ったんだ、そうしたらそいつがあくる日、あろう事か華厳の滝から飛び降りちまってな
鏡子 まあ・・・!
漱石 「悠々たる哉天壌、稜々(りょうりょう)たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす・・・曰く『不可解』我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る」なんて遺書を書き残してなあ
鏡子 ・・・・・・
漱石 周りの連中は俺のせいじゃないって言ってはくれてたんだがな、やっぱりアイツは俺のせいで死んだんじゃないか?って今でも思い返すことがあるんだ
鏡子 そうですか・・・
漱石 はは、ちょうどあの岩波くんも同じ一高の生徒でね、彼もいたくその事件に影響されちまって、学校休んで山に籠っちゃあ藤村の・・・その飛び込んじまった奴のね、遺書を何遍も読み返しては号泣してをずーっと繰り返しててな、「そのうち岩波まで自殺しちまうんじゃあないか」ってみんなでハラハラしたもんさ
鏡子 ・・・・・・
漱石 なんで死んじまったのかなあ。なんで、人は死んじまうのかなあ
鏡子 あなた・・・
漱石 なあ
鏡子 はい?
漱石 「明暗」を書き終わったら、俺はもう小説を書くのをやめるよ
鏡子 あなた・・・!
漱石 「明暗」が最後だ、そうしたらゆっくり治療に専念するよ。俺だってまだ死にたかねえからな
鏡子 ぜひそうなさってください、ぜひ・・・
漱石 それで病気が治ったら、おまえと・・・
鏡子 はい?
漱石 いや…少し眠くなってきた、早いがもう寝るよ
鏡子 あらごめんなさい気がつきませんで。寒くありませんか?
漱石 大丈夫だよ、大丈夫・・・
漱石、寝息を立て始める、鏡子、漱石の様子を伺ってから静かに立ち去る。