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第38ページ

「――づあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」


 我ながら「あ、これ本気で疲れてる時に出る声だわ」と感じるほどの長い呻き声のあと、大人四人ぐらいは楽に寛げるほどの広さの天然の浴槽で、俺は一人、目一杯体を伸ばした。


「あ~、効く。これ効いてる。絶対何かに利いてるわ~、効いてる感じするわ~」


 既に陽は完全に沈み、明かりと呼べるものは星明りくらいしかない静まり返った夜の露天風呂。他には誰もいない貸し切り状態なのをいいことに、俺はやたらと大きい独り言を漏らしていた。疲れている時というのは、俺はどうにも独り言が増える癖があるらしい。


 昼間シビルに温泉の存在を知らされたあと、すぐにひとっ風呂浴びてこようとも考えたのだが、何しろ久しぶりの温泉だ。できれば誰にも邪魔されず、自由で、なんというかすくわれてなきゃあダメだと思い、一人ゆっくり堪能するべくこうして夜遅くにこそこそやってきたのだが、やはりこれは英断だった。


「は~、なんだかこの旅が始まった時からの疲れごと抜けていく気がするな。今までこんなにゆっくりと湯船に浸かる機会なんてなかったからなぁ」


 高原の澄み切った空気と、ビルの明かりや街灯など全くない絶好のロケーションのお陰ではっきりと見える星空の下、絶妙な湯加減の温泉にゆったりと浸かる。


 なんて贅沢なんだ。色々と大変な旅だが、ひとまずここまで頑張ってきて本当に良かった。

 気持ちよさと眠気でトロンとした頭で、俺は今までの旅路をしみじみと振り返っていた。


 自分にとっても大きなメリットがあるとはいえ、半ば強制的に旅を始めさせられたり、いきなり高所からの命綱無しスカイダイビングをさせられたり、運よく助かったと思えば今度は盗賊に追われたり、かと思えばグリズリーみたいな犬に襲われたり、果てはドラゴンと戦うハメになったり…………。


「……改めて冷静に振り返ると、よく無事だったな、俺……」


 結構危ない橋を渡っていたんだなという事実に、今更ながらに変な汗が出てきた。これほど波乱万丈な体験をした高校生が、果たして世界に何人いることやら。


「い、いかんいかん! こんな暗いことばっかり考えてちゃ、折角の温泉が台無しだ」


 頭の中を過った邪念を振り払うように、俺はバシャバシャと湯で顔を洗った。

 ここまで無事に旅を続けてこられた。今は取り敢えず、それで良しとしようじゃないか。


 ザフッ、ザフッ。


「…………え?」


 突如として、何者かが雪道を踏みしめる音が聞こえて来た。咄嗟に息をひそめ、水音もなるべく出さないようにじっと身を固めていると、足音はなおも消える気配はなく、それどころかどんどんとこっちに近付いて来る。数は、一人のようだ。


 な、なんだ、誰だ? こんな時間にこんな場所に来るなんて、そんな物好きがいるのか?


 盛大なブーメランを放ちつつ、俺は逸る鼓動を必死に抑えて息を殺し続ける。足音が、雪道を踏みしめる音から、ひた、ひた、という濡れた岩場を歩く音に変わった。暗い上に湯煙が立ち込めていてよく見えないが、足音の主は、もう俺の入っている温泉のすぐ水際まで来ているようだ。


 俺は細心の注意を払い、タオル代わりの布と着替えを置いている近くの岩にそ~っと手を伸ばす。相手が人だったらまだしも魔物だったら一大事だが、逃げるにしてもせめて腰に布くらいは巻かせて欲しい。


 着替えに手を伸ばしている間、しばらく足音が消えたかと思うと次には何やら衣擦れのような音がして、そしてとうとう、パシャッ、と何者かが湯船に入って来る音が聞こえた。


「だ、誰だっ?」


 いつでも逃げられるように着替えに手を掛けながら、俺は腹を決めて問い掛けた。


「ひゃっ!? え、何、誰かそこに――って、わわっ!」


 果たして、突然声を掛けられたことに驚いて足を滑らせてしまったのか、短く悲鳴を上げながら前のめりにつんのめって湯煙の向こうから倒れてきたのは――


「じゃ、ジャック!? おわっ!」

「シバケン!? きゃあっ!」


 受け止める体制など微塵も整えていなかった俺は、そのまま倒れて来たジャックの下敷きになるようにしてあえなく湯の中へ。


 全ての空気が口から吐き出され、俺は苦しさにジタバタともがく。急いで顔を出さねばととっかかりを求めて腕を伸ばした瞬間、何やら柔らかいモノを鷲掴みにした。


 な、なんだこれ? あったかくて、柔らかくて、まるでお湯を入れた水風船みたいな……。

 息ができずに軽くパニックに陥っていた俺は、まずは湯から出ようとその柔らかいとっかかりに掛ける両手に二度、三度と力を込めて、どうにか水面に浮上する。


「…………ぶはぁ!」

「…………かはっ!」


 俺が飛び出すと同時、ジャックも俺のすぐ目の前で水面から顔を出した。そして……、


「ジャック! お前こんな所にな……にを…………」

「どうしてシバケンがこんな所に…………へ?」


 二人同時に、俺の手元に視線が向く。俺の両の手のひらがしっかりと鷲掴みしていた「とっかかり」は、体に巻かれた布越しに膨らみを見せる――――ジャックの胸。


「…………そのバストは豊満であった」

「わぁぁぁぁぁぁっ!?」


※   ※   ※


「お前……こんな夜更けにこんな所へ何しに来たんだよ?」


 右頬にある綺麗な赤いモミジ型のタトゥー(プライスレス!)を撫でながら、俺は背中合わせで湯船に浸かっているジャックに問い掛けた。


「シバケンこそ、なんでこんな時間にこんな所にいるのさ。はっ! ま、まさか待ち伏せ!?」

「違うわっ! ただ一人で温泉に入ろうと思って来ただけだっての」

「え? シバケンも? う~、この時間なら、絶対誰もいないと思ったのになぁ……」


 不貞腐れるように言って、口元を湯船に沈めてブクブクやっているジャック。

 ははぁ、さてはこいつも、この温泉を独り占めしようと画策していたクチだな。


 しかし、これは少々厄介なことになったな。まさか風呂に入っていたら女の子がやってきて鉢合わせ、なんてラノベの中にしか無いようなシチュエーションをリアルに体験することになるとは。夢の無いことを言うようだが、この状況は実際ただただ気まずいだけだ。


「…………ねぇ、シバケン」


 どうしたものかな、と頭を悩ませていると、唐突にジャックが口を開いた。


「どうした?」

「シバケン、さ……リアちゃんの薬を完成させる為に、今回も何か、凄い事したんだって?」

「凄い事? ……ああ、なんだその事か。シビルから聞いたのか?」

「うん。この温泉のことを教えて貰った時に、一緒にね」

「別に、今回だってたいしたことはしてないよ。そりゃ、あれだけの古文書を解読するのはたしかに大変だったけど、それだってリアの助けがなきゃできなかったことだしな」


 実際、薬を作れるのはリアだけだし、今回のMVPは間違いなくあいつだろう。


「そう? シバケンの言う『たいしたことない』って、いつも結構たいしたことあるような気がするんだけどなぁ? 本を何倍にも増やしたり、あっという間に演劇のお話作りをしちゃったりさ……はぁ~あ。本当に、なんでいつもはダメダメの癖に…………ズルいなぁ」

「は? ズルいって、俺の何が――おぅ!?」


 溜息を吐いていたジャックが、唐突に俺の背中に寄りかかって来た。

 な、なにしてんだこいつ……!


「お、おおお、お前っ。そんなくっつくなって! もう少し離れろ!」


 慌てて押し返そうとするが、ジャックは全体重をかけているようでなかなか離れない。


「はぁ……あのねぇ、こんなことぐらいでなに焦ってるのさ? ボクたち今まで一緒に旅してきた相棒だろ? 散々同じ場所で寝たり着替えたりもしてるんだし、これくらいで慌てるなんて今更だよ」

「セリフと行動を統一しろよ。さっき裸見られて平手打ちかましてきた奴がよく言うぜ」

「あれは『裸を見られた』じゃなくて『胸を揉まれた』だし、シバケンが悪いからいいの」


 うぐっ、それを言われると弱いんだよなぁ……。


 反論できずに黙ってしまう俺を愉快そうに笑って、それからジャックは少し拗ねたような口調で呟いた。


「それに……どうせシバケンは、ボクのことあんまり女の子扱いしてないんだろ?」


 う~む、たしかに普段のこいつは「女の子」と言うよりは、「気の合う友達」とか、「ペット」とか言った方が近い気がするのも事実だが……。


「い、いや。こんな状況だったらさすがに女の子として意識するだろ、絶対」


 しかもあんな事があったんだからなおさらだ。

 俺が言うと、返事が帰って来るまでには短い間があった。


「……へ、へぇ~。そう、なんだ…………た、例えば、どんな所?」

「はい?」

「だ、だからっ、例えばボクのどんな所を、その、女の子として意識するのかなぁ?」


 ここで「おっぱいです」と即答できるほどの剛の者でもない俺は、のぼせている頭をフル回転させて、なんとかそれ以外の答えを探す。どうする、どうする、他には何が……、


「……そ、そういえばさ! お前、前に言ってたよな? 自分の本名がどうとかって」

「へっ? い、言ったっけ? そんなこと。あ、あは、あはは~、覚えてナイナァ!」


 よし、ジャックの気が逸れた。「話題をすり替えておいたのさっ!」作戦、大成功だ。

 たたみ掛けるように、俺は言った。


「お前、たしか本名は自分には可愛らし過ぎるからあんまり言わない、って言ってたよな?」

「ぎ、ギクッ!?」

「はっはっは。なぁ、ジャック? 少しでも女の子っぽく見られたいって言うなら、その『可愛らしい本名』とやらを言えば良いじゃないか。そしたら俺も、お前をもう少し女の子扱いするかも知れないしさ?」

「ギクギクッ! で、でも、さすがにそれはちょっと恥ずかしいというか……」

「おいおいジャック、俺たち今まで一緒に旅してきた相棒じゃないか? 散々同じ場所で寝たり着替えたり、果てはこうして一緒に風呂に入るまでの仲なんだ。本名を教えるくらいで恥ずかしがるなんて今更だぜ」


 先刻の自分のセリフによって完全に墓穴を掘ったジャックは、しばらくの間、湯船の所為か羞恥の所為か耳まで赤く染めると、やがて小さい声でポツリと漏らした。


「…………笑わない?」

「笑わないよ」

「……わ、わかったよ。じゃあ、言うね? ボクの、本当の名前は――」


 ゆっくりと口許を俺の耳に近付けて、ジャックが囁きかけてきた。


「…………はははっ。なるほどな、そりゃたしかに可愛らしいや」

「あっ! わ、笑わないって言ったのに!」

「悪い、悪い。でも馬鹿にしてるわけじゃなくて、本当に可愛らしいなって思っただけだよ」

「う~……恥ずかし過ぎる…………」


 ぎゅっと膝を抱え込んでしまうジャック。こいつの恥ずかしさの基準はよくわからんな。


 ひとしきり笑ったあと、俺はふと、満天の星空を見上げた。手を伸ばせば掴み取れそうなほどの星々に改めて感嘆の息を漏らしていると、ジャックも背後で空を見上げる。


「星が、綺麗だね……」

「そうだな。俺の故郷じゃ、まず見られない光景だな」

「そうなの?」

「ああ。俺の故郷は、なんというか、夜でも明かりが多い所為で、星がこんなにはっきり見える所ってあんまり無いんだよな。ここじゃ、珍しい景色でも無いんだろうけど」

「ふ~ん。シバケンの故郷って、話を聞くだけでも随分と変わった場所みたいだね?」


 言って、それからジャックは何度か躊躇する素振りを見せてから、やがて思い切ったように口を開いた。


「ね、ねぇ、シバケン」

「ん? なんだ?」

「シバケンはさ、その、紀行文ってやつが完成したら、どうするの?」

「どうするって……まぁ、帰るよ、故郷にさ。一応、この本の完成を待ってる奴もいるしな」


 背中越しに、ジャックの肩が一瞬ピクッと揺れた。


「そ、そっか……」


 それからまた少し間を置いて、尋ねてくる。


「……じゃあ、帰って、その待ってる人に本を渡したら、その後はどうするの?」

「そりゃ勿論、また小説を書く日々に戻るよ。そもそも俺の本業はそっちだからな」


 いや、まぁ、本当は本業でもないんだけどね。まだ俺はただのワナビなんだけどね。


「旅は…………旅は、もうしないの?」

「旅? う~ん、そうだなぁ……」


 俺はしばらくの間考え込んで、それからひらひらと手を振った。


「わからん。まぁ、旅をすれば色々と小説のネタも集まるってことはよくわかったし、ネタに詰まったらあるいはまたするかも知れないけど、取り敢えずしばらくはしないだろうな」


「疲れるしな」と言って苦笑すると、ジャックはまた小さく、けれどさっきよりいくらか元気の無さそうな声で頷いた。


「…………そっか」

「ああ。でも、なんでそんなこと聞くんだ?」

「ううん。何でも……何でも、ないよ」


 最後に一言だけそう言って、ジャックはもう一度空を見上げると、それから夜空を彩る無数の光の粒をただただじっと、静かに眺め続けていた。


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