モールス信号が知らせる「何か」
ポチャン ポチャン
雨漏りだろうか。どこからか水が落ちる音が等間隔に聞こえてくる。
長年放置されてきたであろう建物の内壁は薄汚れ、湿気を帯びて所々の壁紙が剥がれ落ちている。
埃と湿った臭い。妙に鼻につくその匂いもまた、放置されていた長い年月を物語っていた。
窓を塞いでいたであろうベニヤ板が剥がれ、僅かに外の明かりが差し込んでいる。建物の周辺は当然、手入れなどされておらず草木が茂っていた。そのためか差し込む明かりも、日中だというのにひどく心細いものだった。
ジ ジジ ジジジ ジ
非常灯が宛先の無いモールス信号のように明滅を繰り返している。
電気が供給されているとは思えなかったが、予備電源などが作動しているというのか。
所々の扉に板が打ち付けられ、人が入ることを拒んでいたのだろうが、それもまた崩れ落ち、その隙間から内部を伺うことができた。
いや、内部はさらに漆黒の闇となり、入りたいなどと思わせないような、心理的な拒絶がそこにあった。
「いやまあ、なんと云ふか。
懐中電灯の一つ、持ってきても良かつたんぢやあないのかい。」
「ばか云へよ、お前。
懐中電灯など持つていたら、戦えないぢやあないか。」
「そうは云つても、この薄暗さぢやあ、歩くのも一苦労だよ。」
「修行だと思へば問題ないよ。」
リュウジンは強がりのように僕の呼びかけに応えたが、僕もリュウジンも、どうも落ち着かない。
自分たちの声の反響音もそうだが、鼓膜を圧迫するような、妙な空気圧が不快だった。
そこで突然、僕のポケットが微振動する。その音がまた、この静けさの中で不安を掻き立てるような音となった。
「なんだい。
お前の電話が鳴つているのかい。」
「どうやらそのようだよ。
どれ、出るとするよ。」
「早く出たまへよ、お前。
どうもその音は不快で堪らんよ。」
「申す申す。」
〔ミスミです。
建物内に侵入することができたようですね。〕
「嗚呼、そこまでは無事にこなせたよ。
でもね、どうも此処は落ち着かないんだよ。」
〔すみません、普通に喋ってもらえますか?〕
「普通ぢやあないかい?」
〔全く普通じゃありませんね。
78%ぐらい。〕
「思つたより低いぢやあないか。」
〔幌谷さんは元から普通ではありませんので。〕
「どんだけだよっ!」
「うるせぇよっ!」
僕に続きリュウジンも叫んだことで、僕らの心に巣食う不安定さは消し飛んだ。
ちなみに僕とミスミとの電話はイヤホン越しだったので、当然リュウジンには聞こえてはいない。
そして唐突だが、諸兄諸姉のためにミスミの声は〔 〕で表現しているのは、僕の配慮だ。
〔叫ばないでもらえますか?
ちゃんと聞こえていますので。〕
「板挟みで僕が悪いみたいに言うなよ!」
〔それで、内部の様子はどうですか?〕
「定型的にスルー!
…どうもこうも、普通に廃墟だよ。
人の気配は勿論だけど、鬼の気配もない。」
「ケッ、確かに鬼の気配がねぇが、それがまた胡散臭ぇ。
表の二匹だけなわけがねぇ。」
僕とミスミとの電話のやり取りに、リュウジンが呟く。
〔先に進む必要あり、ということですね。〕
「リュウジン、先に進めってよ。」
「あ? 電話は雫さんか?
当たり前じゃねぇか、バカ野郎。
誰かが行き来した形跡があるしな。それが罠かもしれねぇが、乗っかってやらぁ。」
正直なところ、僕はこんな薄気味悪いところに長居はしたくはなかったし、まして先に進みたくもなかった。だが「調査」という名目から考えてみると、確かに進まざるを得ない。
「リュウジン君は進みたいって。」
〔幌谷さんもです。〕
「お 前 も な!」
「電話の内と外でハモるなよ!」
生きる気配の無い陰鬱な廊下に、僕の悲痛な叫びが響く。
「乗っかった船」とは言うが、こんな三途の河の渡し船のようなものに、僕は乗りたくはない。
「それで…、
とりあえずのところ、「リュウジン・ナビ」で進んでいいわけね?
ミスミちゃん?」
〔僕も、モモボ…
ゲゲ……いる…ではなぃ…
タ… こトト…… ま
ガガガガ… 〕
廊下の角を曲がり、「ミシリ」と何かを踏んだ音が、足元から聞こえた後、
電波の状態が急激に悪くなり、
ミスミの声が聞こえなくなった。
〔……、 … 。〕
通話終了を知らせる音は、
鳴ってはいない。
「ミスミちゃーん。
おーーーい。
なんか電波が悪いみたいだけれども?」
〔 こ…
こか ……ラハタ…
てよ ミ……デ …… 〕
「え? え? なんて?」
ザ ズズ ズザ ザザザ
「おーい、おーーーい!」
最早、雑音しか入ってこない。
電話しているとはいえ、イヤホン越しでは独り言のようにしか見えない僕に、電波状態が悪くちょっと慌てふためく僕に、リュウジンが苛立ち交じりで話に割って入る。
「繋がってねぇなら切っちまえよ!
正直、歩きスマホとかうぜぇんだよ。」
歩きスマホじゃねぇし!
確かに僕はイヤホンをしているのにも関わらず、電波状態、通話が切れていないことを確認する意味で、スマホの画面を見続けながら歩いてはいた。
だがそれとて、この不確かな状況下での情報収集ではないか。
〔たす… け て… 〕
「え?」
〔ダ メ… もう、 ダメ… 〕
「なになになにっ! どゆこと?」
〔脳ガガガガ… ガアァァァッ!〕
途切れ途切れに聞こえてくる言葉に、僕は戦慄する。
だが、イヤホン越しの雄叫びの後、暫しの静寂が訪れる。
なんなのだ。どういうことなのだ。
〔ねぇ? ねぇってば… 〕
「聞こえてるよ! 聞こえてますからっ!」
〔助けてよ… ねぇ?〕
「いやいやいやいや、どうすりゃいいのよ!」
「だから切れって!」
「そういうことじゃねぇんだよ!」
リュウジンの茶々に、ついツッコミを入れてしまったが、そもそも「これ」が聞こえていない奴にわかるはずがない。電話越しに聞こえる「その声」、その内容がわかるはずがない。
如何しろというのだ。「その声」が唯一聞こえている僕は、この場において孤独ではないか。
真の恐怖とは現実の孤独に訪れるものではない。心理的な孤独に訪れるのだ。仮にここが乗車率200%の満員電車の車内だったとしても、そこに孤独は存在するのだ。
そしてその孤独感の中にあって、誰とも共有することのできない恐怖感は、幾何万倍にも膨れ上がっていった。
〔出られ…ない
出られない出られない出られない出られない
出られない出られない出られない出られない
出られない出られない出られない出られない
ででででラララララレェェェッェェ……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさぃぃぃぃぃぃっ!!」
〔隙間から…出られ、ない… 〕
ブツッ
ツー ツー ツー
そして通話は一方的に切断された。
何なんだよ、もう! どういうことだよ! 隙間って、隙間ってなんだよ!
もう壁とかの隙間とか見られないよ!
「リュウジン! まじやばいよ!
ここはやばい!」
「うっせぇよ!
やべぇのは最初っからわかってんだろうが!」
「いやいやいや、そういうんじゃなくてだな!」
「ピーピー、ギャーギャー言ってんじゃねぇよ!」
リュウジンが振り返り、心底、苛立った様子で僕に怒りをぶつける。
わかる、わかるよ? でもねリュウジン、君は聞いてないだろ?
あんな電話を耳元で言われたら、あんな声を聞かされたら…
あんな声…、あんな声? あれはミスミちゃんの声だったか?
じゃあ、誰の声だというのだ…
そんな疑問が頭の中をよぎった直後、リュウジンの背後、僕の視線の先の廊下の突き当りを「何か」が横切った。
それは生気がなく、白い入院服、あの入院患者が着る白い浴衣みたいな服を着た、うなだれた人影、髪の長い女性らしき人影が、音もなくスーッと横切ったのだ。
「あ、あ、あれ! なんか横切った…
なんか白いのが横切った!」
「あ?
何も…、いねぇじゃねえか。」
リュウジンも僕の異常に何かしらに警戒しながら振り返り、目を凝らす。
この病院廃墟はやばい…
鬼だとか調査だとか言っている場合じゃない。
僕は、いや僕とリュウジンは、この後更なる「何か」が待ち構えているのではないかと、心のどこかで感じ取っていた。
だが僕らはその「何か」の気配に対し、沈黙する以外の手立てがなかっただけだった。




