お稲荷さんの中には牡丹雪
玄関を開けると、そこは雪国だった……。
玄関を開けて「家の外」の話ではなく、玄関を開けて「家の中」が雪国だったということなのだが、雪国というのはもちろん比喩表現だ。いよいよ夏到来というこの時期に、僕は自宅の玄関を抜け、身が切り刻まれそうな極寒の中、吹雪をかき分けて部屋の中へと突き進む。部屋の中央には姉が正座している。玄関、つまり部屋に入ってきた僕に背中を向けて。
吹雪はもちろん姉の背中から発せられている。僕は大きく身震いすると、意を決し姉の背中に向けて声をかけた。
「姉ちゃん、来てたんだ。」
「はーちゃん、座って。」
もう僕も二十歳を目前としているのだから、いいかげん「はーちゃん」と呼ぶのはやめてくれ!
とは、今の状況では言えなかった。僕が中学2年の時に母が亡くなって以来、母親役が抜けない姉は、僕のことをいまだに「はーちゃん」と呼び続けている。
ここで諸兄の誤解を受ける前に、僕の姉について説明しておこう。諸兄は「姉」そして「母親役が抜けない」というキーワードから、甲斐甲斐しくしっかり者で、料理洗濯等の家事全般が万能であり、「もう、はーちゃんたら、ちゃんと髪を洗えないんだからっ! 今日はお姉ちゃんがはーちゃんの髪、洗ってあげるね!」とか、「さっき怖い映画を観たから、寝られないでしょ? お姉ちゃんが一緒に寝てあげる…。」とか言ってるけど、本当は姉ちゃんが怖いだけじゃん! 布団に潜り込んでくるなよ! だとか、あるいは「はーちゃん、お稲荷さん好きだよね。今日ははーちゃんの誕生日だからたくさん作ったんだよ! あぁんもう、そんなに慌て食べないで! ほっぺにご飯粒ついてるぞ!」とか言いながら、直接、僕のほっぺに口づけし、ご飯粒を食べる。なーんてことは、ほぼ無い。
とりあえず料理に関しては、お稲荷さんを除いて壊滅的だ。
幌谷カナデ、27才、独身。雑貨屋の店長。そして僕の姉。
僕は大学に入ると同時に独り暮らしを始めたのだが、最初は「お姉ちゃんも一緒に住む! だってはーちゃん、お姉ちゃんがいないと何も出来ないでしょ?」といってきかなかった。僕が頑なに拒絶すると「はーちゃんも男の子になったって、ことなのね…」といって、微妙な勘違いをされながらも最終的には独り暮らしを許してくれた。
はずだったのだが、結局、僕が独り暮らしをはじめるのと同時に姉も引っ越し、今現在、僕の隣の部屋に住んでいる。
そして姉は仕事が休みの日には、僕の部屋を勝手に掃除をしに入ってくるのだ。今思えば一度鍵を貸したことで合い鍵を作られたということが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
「なんかあった?」
僕は何があったのかはわかっているのだが。壇之浦から貰った封筒は姉の前に置いてあるのだから、わかってはいるのだが、知らないふりをして姉の前に座る。
「はーちゃん。お姉ちゃんね、贅沢はさせてあげられていないかもしれないけど、ちゃんと生活できるようにしてあげてると思うの。」
うん。
「遊びたい盛りだろうから、最近、お姉ちゃんのこと構ってくれないけど、好きにさせてあげてると思うの。」
ん?…う、うん。
「でもね、お金目当てでお金持ち未亡人マダムのおもちゃになるのは、どうかと思うの!
誰なの? 雫さんて誰? どこの未亡人マダム?
私のはーちゃんが、私のはーちゃんが!
裸にシルクのガウンを着せられてあんなことや、こんなことや、ヒールで踏まれたりだとか、無理矢理チョコパイを口に詰め込まれたりだとか!
その上、どっかの非公式ご当地ゆるキャラの着ぐるみを着せられて、「ほら、お腹が空いてるのでしょ? 貪り尽くしなさいな」って言われながら、グツグツに煮立ったインドカレーを床で食べさせられたりだとか!
そんなの…お姉ちゃん、悲しい!」
っておーい!「お金持ち未亡人マダム」って誰だよ! シズク? 僕の方が聞きたいよ! それに僕はそんなマダムに従う従順さをスペックとして持ち合わせてなどいない!
今度は本気の本気でそんな願望は無い!
そう、姉は微妙な勘違い突っ走り系だ。そして泣き虫なのだ。
姉は自分の思いを言い切るとシオシオと泣き始めた。
僕は壇之浦からの封筒を手に取り、中に入っている現金を退け、手紙を取り出す。
そこには封筒の表に書かれた宛名と同じような可愛いらしい文字で、電話番号とともに一言だけ書かれていた。
「あの日のことが忘れられません。
電話ください。待ってます。
雫ミスミ」
雫ミスミ。「シズク」が性で名が「ミスミ」なのか。あぁ、どおりで「三隅」という性に心当たりが無かったわけだ…。
そして「雫ミスミ」というフルネームを見て、僕は気がついた。確か保育園、小学校、中学校と同じ学年にいた子の名前だ。保育園時代に同じクラスだったことを除いて、同じクラスメートになったことがないので、諸兄が期待するような「幼馴染キャラ」というポジションに彼女は座らない。
母が亡くなったのを境に、僕が中学2年で転校して以来、雫ミスミとは会ったことがないのだから、つまり実質はほぼ他人であるということなのだが、出会った女の子の名前を忘れるとは。これは明らかに僕の失態だ。
死を覚悟するような猛吹雪はおさまり、今はシンシンと牡丹雪が降り続けている。
姉の気分は落ち着いてきているだろうか。しかし、このままではやがて降り積もる雪で身動きが出来なくなってしまうだろう。
「姉ちゃん、ごめん。僕が悪かったよ。
お金は…、壇之浦さんから貰ったんだ。入れるものがなくてその封筒に入れただけなんだ。
だからお金とその手紙は関係ないよ。
姉ちゃん覚えてないかな?
ほら、僕が保育園の時に一緒だった、雫ミスミちゃんって。
節分の時に弾幕のように豆を連発しまくって、鬼役の園長先生の眼鏡を割って逆に泣かしてしまった、あの雫ミスミちゃんだよ。
中学の時の転校するまでは同じ学校だったんだけどさ。」
姉がピクリと仄かに反応する。雪解けの季節へと変わっただろうか?
「うちの大学に、前の中学の時の友達がいてさ、いやー懐かしいねって。
それでさ、その友達が雫ミスミちゃんからの手紙を預かったみたいで…。特になんだってことはないんだけどさ!」
ちょっと苦しい言い訳みたいになってきたが、そこまで真実からは遠くないだろう。
と、僕は自分に言い訳しながら、姉の様子を見る。僕にしたって「成金未亡人マダム」より「甘酸っぱくない距離感の幼馴染」の方が100倍いい。
「……、本当なの? はーちゃん?」
「本当だよ! 壇之浦さんから黙ってお金を受け取ったのは謝るよ!
本当は受け取るつもりがなかったから、後で返そうと思ってほったらかしといたんだ!
ごめん、姉ちゃん!」
僕は手を合わせて拝み倒すように姉に頭を下げる。姉は顔を両手で覆っていたエプロンから片目をのぞかせ、僕の様子を伺う。過去、何万回繰り返してきただろう。もはやこれは儀式的かつ様式美のような光景だろう。
僕はすくっと立ち上がり、台所へと向かう。雪は解けて一気に常夏だ。
「姉ちゃん、どうせ昼ごはん食べてないだろ? 今、そうめん茹でるよ。」
僕は今までの話はなかったかのように、そうめんを作る準備に取り掛かる。
これでこの件はなかったことにできるはずだ。あの男のせいでこんな誤解を招き、あげくそのことの罪を僕が被ることになろうとは腹立たしい限りだが、厳しい冬をやり過ごすことの方が優先事項なのだから致し方があるまい。
それにしても、何なのだ雫ミスミは。「あの日のこと」ってなんだよ!
「壇之浦さんにも困ったものね…。」
姉の呟く声が台所まで届く。
壇之浦だけではない。雫ミスミにしろどんどん僕の周りには「困った奴」が増えてる気がする。
いったいなんだというのだ。
僕は鍋の湯が沸騰を始め、気泡が徐々に大きくなる様を見ながらそう思った。