現実と虚構からなるオイナリッド
長い長い「夢」を見ていた気がする。
夢の中での僕は自由だ。何でもできる気がした。
いや、それは誤解だ。僕は「自由」ということを理解していないだけなのかもしれない。「何でもできる」ということは「制約」がないということだ。
「制約」がない中での自由に意味はない。「制約」があるからこそ、そこで「制約」をやぶることに「自由」という意味がある気がする。
そして僕には「言い知れぬ悲しみ」「耐えがたき喪失」「崩壊する自己意識」といった「制約」を無視していた気がする。
その中にあってただ「自由気ままに」やっていただけな気がする。
その「自由気まま」な僕は、意図せぬシャットダウンに記憶を切断された。
最後に聞いた言葉は、
「うちのトンカツは冷めてもおいしいでしょ? それはねぇ自家製ソースに秘密があるんだよっ!」
というセリフだった気がする…
そのセリフを言った幸子のことは、「がんばれ!ミシュール先生!!」第3.5話に出てきたトンカツ屋の幸子さんのことだと、今更、諸兄諸姉に説明するまでもなかろう。
「さちこぉぉぉぉぉおおおおおおっっ!!」
僕は雄叫びをあげて起き上がった。そこは河原の草原だった。
僕は確かに目覚める直前に、幸子のはつらつとした声を聴いたはずだ。それは天の声に等しい、僕に生きる希望を与える聖歌だ。
「にぃちゃんてさぁ、寝ても覚めてもけたましいよね。」
僕は声のした斜め後ろ方向、135度後方へと首を回転させ、その声の主を見る。
そこには体育座りで頬杖をつき、夕焼け空を背景に崩落した橋を見つめる少女、「狂喜の格闘少女」ニコナが、今はクールな面持ちで佇んでいた。
ニコナ! ニコナ?
僕は首に続けて身を135度回転させニコナを抱きしめる。
どこまでが「現実」でどこまでが「虚構」なのか。僕は曖昧な境界線に戸惑いながらも、ニコナがいるという「現実」を五感で感じ取ろうとした。
触感よりも先に、どこか甘い香りが僕の鼻腔をくすぐる。
「起き抜け出し抜けに。」
ニコナが両手を上に挙げ、合気で僕のホールドをいとも簡単に解除する。宙に放たれた僕の腕をの取りながら背後へと回り込み、チキンウィング・フェイスロックを極める。
「うふぁいーっと、おぅぷすぃーっと!
起き抜けに出し抜けに極められているのは僕の方ぢゃないか! ニコナちゃん!」
「あのねぇ、にぃちゃん。
今のはセクハラ通り越して、児童虐待に当たると思うよ?」
「いやいやいやいや!
今は大人虐待に入っていますが? 最近、「大人虐待防止法」が国会で成立したらしいよ!
僕の行為はほら、気を失っていて、意識が朦朧とする中の、ほんの些細なボディランゲージだからさ!」
僕は空いている左手でニコナにタップするものの、締め上げられた顔面に力が緩むことはない。
唯一、極められた右上腕に、ニコナが「生きている」という鼓動を感じ取る。
「まぁ、あたしもついさっきまで気を失ってたんだけどさ。
兵跡に胴回しを止められてから記憶がないんだよね。大きいのもらっちゃったかなぁ。」
「無事なのか? …無事、だよね?」
ニコナの吐息、声が耳元にかかる。
「ん。
無事だけど…。負けちゃったね。」
「生きているんだから僕らの勝ちだよ。」
僕は反射的に答えた。そして「死」という言葉を回避した。
ニコナが僕を解放し、夕焼け空に向かって大きく伸びをする。僕は極められていた腕を回しながら、同じように夕焼け空を見る。
その下では、早くも崩落した橋の処理作業が始まっていた。
「あーぁ。夏期講習行きそびれたなぁ。」
「大丈夫なのか?」
「うん、講習自体は出ても出なくても大丈夫だから。
でもヒヨが怒ってそうだなぁ。」
ニコナが苦笑いを浮かべて、スカートに着いた草を払う。
「んじゃ、にぃちゃん。あたしは行くね。」
「あぁ。
その、なんだ、あれだ。気を付けて帰れよ。」
「ん。にぃちゃんも!」
ニコナが空元気のような笑顔を残し走り去る。
僕は後ろ髪を引かれるような、せっかく埋めることのできた喪失感を再び感じるような寂しさの中、ニコナの背中を見送った。
後ろ髪…。僕はふと気になり後頭部をなでる。特に何もない。でも確かに、誰かに殴られたような気がするのだが…。
立ち上がり、身体の調子を確認する。びっくりするぐらい全身の筋肉痛が始まっているのがわかる。
僕は現実と虚構の間にいることが嫌になり、筋肉痛という現実だけに意識を集中する。
足元に木の棒、太鼓のバチが転がっている。それがまた僕を現実と虚構の間へと引き込もうとする。
「そんなわけにはいくまいて。」
呪文のように僕は一人語を、太鼓のバチ、「太鼓のバチ」であるところの「柴刈乃大鉈」、で、あるところの「宝刀鬼殺し」に向かって言う。
何も言わない「太鼓のバチ」を拾い上げて、僕は無造作に、しかし棒だけに「相棒」としてしっかりと後ろポケットにしまう。
夕日の赤々さが僕には重たすぎる気がして、後ろを向き帰路につく。自分のものではないのではないかと思うぐらいの長い影を見る。
「ミスミちゃん。」
僕は「歩く」という動作の中に、それが一連の動作であるかのようにミスミへとコールする。
「はい、何でしょうか。」
「状況説明を頼む。」
「75%ほどの把握としてお聞きください。」
僕は「無言」をもって肯定する。
「幌谷く…、さんのところに中鬼が現れました。そのためボクとは別の部隊が支援に駆け付けました。」
今更、ミスミとは別の部隊があることについては言及しなかった。
「うん。」
「幌谷さんとニコナさんが意識喪失のため戦線を離脱。同時に中鬼は撤退。部隊は追跡を諦め、救護活動と防衛警戒に専念。」
「意識…喪失か。」
「過度な精神負担が原因だと思われます。
しかしお二人のおかげで、被害は最小限に抑えられました。特に幌谷さんの存在は大きかったかと。」
僕の記憶と客観的事実、現実との差異は「意識喪失」という言葉に片付けられる。
「僕は…、僕は何もしていないよ。」
「そんなことはありません。」
ミスミがきっぱりと断言する。
その声は僕を肯定する響きだった。言葉以上に優しくやわらかな響きだった。
「帰っても大丈夫かな。」
「はい、後のことはお任せください。」
僕は家に着くまでの間ずっと電話を続けたい気分だったが、続けるための言葉が思い浮かばなかった。
ミスミも無言だったが、電話を切ることはなかった。電話越しにミスミの体温を感じるような気がした。
僕はしばしの後、電話を切った。
家に着くと、玄関の鍵が開いていた。
「ただいま…。」
「おかえり! はーちゃん!」
「姉ちゃん、帰ってたんだ。」
「うん、今日はお店を早く締めたから!
どこに行ってたの? はーちゃん!」
「そっか、そうだよね。ごめんごめん。
いや、ちょっと買い物しようかと思って、そのまま散歩だよ!
少し休んだら行こっか。」
そうだった。今日は姉と晩御飯を食べに行く約束をしていたのだった。
僕は姉の前にひとまず座る。
つもりだったが、家に着き緊張感から解放されたせいなのか身内の顔を見た安心感なのか、一気に体の力が抜けて前のめりにつんのめり、僕は姉の胸にのしかかる。
姉はその行動を予期していたかのように、僕の頭部を優しく受け止め抱きしめた。
「少し休んだら…、行こう…」
僕は起き上がる力もなく、その柔らかな温かさに身を任せたまま、意識が遠のいていく。
「はーちゃんがどこで何をしているのかは、お姉ちゃんわからないけど…。
でもはーちゃんがいつも頑張って、いつも無理してることはわかってるよ。
お姉ちゃんはいつだって、はーちゃんの味方だよ。」
姉は優しく僕を抱きながらそう呟いた。でもすでに僕の耳にはその声は届かない。
窓から差し込む朝の光に僕は目を瞬かせる。目覚めたときにはもう翌朝となっていた。
テーブルの上には「たくさん食べて元気を出しなさい。」という姉からの手紙と、15段はあろうかというお稲荷さんのピラミッド、「オイナリッド」が崇高にそびえ立ち、僕を待ち構えていた。




