雨が降ろうとボールペンが降ろうと
ミスミからの「前方に新手が…」の警告と同時に、僕は正面に目を向ける。ウズウズが目の前にいる最後の鬼、半鬼化した和装の女の鬼門を潰したのと、ちょうど同じタイミングだった。
民間人? なぜ民間人がこんなところに? いや、大自然を満喫している人の一人や二人、いるかもしれない。だが、明らかにこの大自然の中で、アタッシュケースを片手にスーツ姿とは異様だ。
勿論、「はて? 営業先に行こうとしたら道に迷ってしまいました…。」だとか、「もう社会の歯車になるのは疲れた…。」というひと時の現実逃避。はたまた「これが私の普段着! 常にビジネスチャンスを逃さないのですよ!」といったスーパービジネスマンもいるかもしれない。
いや違う。目の前に鬼が現れ、そしてウズウズが鬼を討伐しているこの光景を目の当たりにして、笑顔でこちらを見ていることが異常だ。
僕はその笑顔に薄ら寒いものを感じた。だが、そのスーツ姿の男から鬼特有の気配を感じることはなかった。
僕の斜め前方で構えるウズウズも、攻撃対象であるのか否か判断がつかないようだ。いつもの脱力感のある佇まいではなく、低く攻撃態勢を保ったまま静観している。
「いやー、この急な雨。災難でしたねー。」
男はそう言いながら雨上がりの空を見上げ、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。
「でもですねー、どういうわけか雨の日は、物が売れるんですよー。」
男は再びこちらに笑顔を向けて、話を続けてきた。こういうのを営業スマイルというのだろうか。いや、営業スマイルだって何かしらの感情がそこにはある。顔は笑顔であるのに、笑っている感がまるで伝わってはこなかった。僕は思わず半歩退く。
「いやいや、余計な話を失礼。お会いしたかったんですよー、幌谷さん。」
「どうして僕の名前を…。何者ですか?」
「ははは、これは失礼、申し遅れました。私、蛙水。かーわーず、みーずと申します。
営業マンなのに自分は「買わず」「見ず」って、面白いでしょう? 覚えやすいと良く言われますよー!」
そう言いながら蛙水と名乗る男は名刺を取り出す。
「ははは、幌谷さんは大学生ですから、お名刺はありませんよね? いやいや、結構ですよー。」
蛙水が名刺入れから名刺を取り出す仕草に、僕が目を奪われている一瞬の隙に、蛙水は目の前まで距離を縮め、名刺を差し出す。
まるで瞬間移動かのような動きだった。
だが、その名刺をウズウズが横一閃し、僕と蛙水の間に割って入る。
半分に切られた名刺が宙を舞う。
その半分の名刺が視界に舞ったと思いきや、今度は一瞬のうちに蛙水が後退し、ウズウズとの間合いが大きく開く。
そうだ、ウズウズは横一閃の直後に一歩大きく踏み込み、蛙水に対してナイフを突き刺したはずだった。
「いやー、受け取ってもらえませんか。まーよくあることです。初対面で名刺を受け取ってもらえないことはねー、営業マンやっていますとねー。」
蛙水は切られて半分になった手元の名刺を一瞥すると、それを何事もなかったかのように名刺入れに戻す。
「ところで幌谷さん。あなた「鬼ごっこ」で遊んだことはありますか?」
「それが…、なんだっていうんですか。」
「よーく、考えてもみてくださいよー。
鬼ごっこのルールは知っていますか? シンプルに言いましてですねー、鬼に捕まったら、はい終わりです。」
「…。」
「つまりですねー、「鬼ごっこ」っていうのは一方的なんですよー。勝ち負けではありません。鬼に捕まったらはい終わり。
鬼に刃向かうなんてありえません。反撃なんてのは違反ですよー。逃げること以外にしてはいけませんよねー。」
「何が言いたい!」
「あなた方、幌谷さん。あなた方はルール違反、目障り、異質なんですよー。」
鬼に一方的にやられろ、逃げ惑えとでも言いたいのか、この男は!
後方からザッザッザッと枝葉を突き破る音がして、吹き飛ばされた鬼が僕の頭上を飛んでいく。蛙水は横にすーっと避け、その傍らに鬼門を潰された鬼が大きな音を立てて落ちた。
蛙水は「おやおや。」といった態度を示したが、そこに動揺はなく、そして相変わらずの営業スマイルだった。
「にぃちゃん、こいつ何者?」
先程、鬼を吹き飛ばしたであろうニコナが、僕の傍らに並ぶ。
「押し売り営業マン、とかの類だ。」
「押し売りとは酷いですねー。それに、クーリングオフするにしても、こう商品を駄目にされたんでは、ね!」
蛙水は横たわる鬼を足先で小突きながら、僕の回答に割って入ってくる。蛙水のその行為に、僕は苛立ちを覚えた。
「それ以上は…、やめろ!」
「ははは、自分は正義だと仰りたい感じですかー? 幌谷さん。」
鬼に視線を落としていた蛙水は顔を上げ、ここ一番の営業スマイルといった、しかし感情の見えない笑顔で僕を見据える。
「上司にはですねー、手を出さぬように言われているのですがねー。
半端な鬼ではご不満のようですし、ほら、営業とは言っても、カスタマーサービスも仕事のうちですから、ね。」
そう言いながら、蛙水は背広の内ポケットからボールペンを取り出し、つまむように持ちながらこちらを指し示した。
「少し、お相手してあげますよー。」
その瞬間、蛙水からおびただしい鬼の気、瘴気が溢れ出す。それと同時に捻じれた鋭利な角、インパラの角のようなものが姿を現わす。
背筋を下の方から百足が這い上がってくるような、吐き気を催すような悪寒が走る。
ニコナがその瘴気に呼応するかのように、本能的に闘気を一気に上げて飛び出す。そしてウズウズがそれに続きサイドから駆け上がる。
二人の冷静さを欠いた動きに、僕の脳裏に不安がかすめる。
ニコナが直線的な軌道で接近したとはいえ、直前で左へとサイドステップを踏み、攻撃タイミングにフェイントを入れて飛び回し蹴りを放つ。
かに見えたが、蛙水がゆらりと円軌道で体軸をずらすと、そのまま踏み込んでくる。
何が起こったのか。ニコナは蹴りを放つ直前に急遽、顔面をガードするが、そのまま弾き飛ばされた。
そしてその直後、蛙水の死角から接近していたウズウズが、低い姿勢から両手のナイフで胴を薙いだかに見えたが、蛙水がバックステップで躱すと同時に、ウズウズまでもが腹部を強打されたように弾かれ、地を滑る。
「今、頭部を迎撃されるって思ったから!
ガードしたけどモーションがなかったのに!
攻撃されたっ!」
ニコナの叫びに動揺が隠し切れない。僕も見ていた。蛙水は躱しただけで、攻撃はしていない!
「でも…。何かされた。」
ウズウズが腹部を押さえながら、ニコナの叫びに答える。
ニコナとウズウズが構えを保持したまま、蛙水から距離を取る。蛙水は相変わらずの営業スマイルだ。構えや動きは剣道のそれに似ていたが、持っていたボールペンを振りかぶる素振りはなかった…。
「普通の人間なら今ので死んでるとは思いますけどねー。それはそれでお見事。
でも幌谷さん、あなたの下僕は戦意喪失ですかねー?」
蛙水は構えを解き、「やれやれ」といった様相で言い放つ。
「では、次は私の方から行きましょうか。」
蛙水がふわっと動き、ニコナに照準を定め急接近する。ニコナが反射的に攻撃されるであろう部位を勘でガードする。そして蛙水は前へ前へとステップを踏むだけで、まるで攻撃しているようには見えなかったが、やはり確実にニコナは攻撃を受けていた。
ウズウズがニコナを援護するように回り込み、蛙水へと狙いを定めてナイフを投擲する。蛙水は持っていたボールペンで弾くような素振りを見せたが、ボールペンに当たる前にナイフが弾かれたように見えた。
そしてその直後、今度は蛙水がボールペンをウズウズへ投げ、さらに後方へと離れながら続けて新たに取り出した二本のボールペンを、ニコナ、そして僕へと投げつける。
僕は反射的に横へと転がりながら退避したが、ボールペンは想像とは違う軌道を描き、大地に突き刺ささった。
「ぐっ!!」
「うぅっ!!」
ウズウズやニコナに投げつけられたボールペンも、同じように見当外れな軌道で大地に突き刺さる。しかし、その自身に向けられたものではない軌道から構えたまま動かなかった二人は、まるで実際にボールペンが刺さったかのように、矢が打ち込まれたかのようにダメージを受け、その場に倒れこんだ。
「ウズウズ! ニコナーっ!!」
「おやおや。勘が良いのか、運が良いのか。
幌谷さんには当たりませんでしたねー。
桃太郎だからなんですかー?」
気味が悪い営業スマイルを浮かべる蛙水。その男の不透明な攻撃に、僕らは全くなす術がなかった。




