グララアガアと鳴くリモコン(裏)
軒島ニコナは憂鬱だった。
ニコナは教室では窓側の中間ほどの席だったが、そこから見える窓の外の景色を眺めていた。開けた窓から入ってくる初夏の風は心地よかったが、それでも頬をなでる風が心のモヤモヤを晴らしてはくれなかった。時折、閉めているカーテンの端が大きく揺れた。
国語教師が宮沢賢治について説明している。ニコナは国語教師のことは嫌いではなかったが、国語の授業は特別好きではなかった。
グララアガア、グララアガア。象の鳴き声ってどんなんだっけ?
数日前、ニコナは自分が「桃太郎の犬」の生まれ変わりだということに気がついた。これを「転生」というのだろうか。といっても直接「犬」からの転生というわけではなく、何代目かの転生のようだった。こうなってくると「転生」というよりは「継承」だとか「啓示」だとか、何らかの「遺志を継いだ」という方が、表現としては適切なのかもしれない。
でもニコナはあまり難しいことを考えるのはやめた。
よくわかんないけど、あたしは桃太郎に出てきた犬らしいってことか。
ニコナはあまり考えるのが好きではない。そもそも考えて行動して成功したためしがない。直感で行動する方が性に合っているし、それで成功しても失敗しても特に気にならなかった。
そういう意味では武術道場に通うのは楽しかった。考えることなくただひたすらに技を磨き、ただひたすらに目の前の相手に全力をぶつければよかった。とはいえ飽きるというのだろうか、ある程度達成するというのだろうか。中国武術から始まった道場通いも、空手、柔道や合気道、総合格闘技やらと、今通っているカポエイラ道場で通算14種目になる。おかげでどの武術でも腕はそれなりなのに大会等には出たことはなかった。
いや、武術に限ったことではないかもしれない。その類い稀な身体能力のため、運動系の部活動からたびたび勧誘を受けたが、すべて断ってきた。そもそも集団行動になじめないことは自分がよく知っている。
それにあたしは強い奴に、全力をぶつけたいだけだし。
ニコナはふと「鬼」のことを考えた。桃太郎なのだから鬼退治は付きものだ。「鬼」って強いのだろうか。豆をぶつけられるやつ? 豆でやられる奴が強いとは思えない。
今の時代には仕方がないことなのかもしれない。ニコナに限らず、「鬼」の地位は今や幼児の躾にすら使われなくなってしまっている。
「桃太郎のイヌ役になりました。はい、鬼退治に同行してください。」と言われてもピンとはこない。そんなの豆鉄砲で驚く鳩と同類のお手軽さだ。
そういえば犬って何してたっけ? 噛みつく? それはやだなぁ。
「にこなー! 授業終わったよ?」
クラスメートのひよりんがニコナの顔の近くまで接近し、声をかける。態勢を少し後ろに引きながらニコナは「うん。」とだけ短く答えた。
「んで、にこなは例の彼、どうすんの?」
「例の彼」。先週、告白してきたサッカー部のエースだかキャプテンだか、3年の男だ。ニコナはその彼を全く知らないわけではなかったが、特別興味もわかなかった。
ひよりんの期待の眼差しを笑顔で流し、短く答える。
「んー、スルーパス?」
「何それ~?」
ひよりんは不満そうに、やれ青春だの恋は女を磨くだのと、一人テンションを上げている。ニコナはいまいち恋愛というものに興味がわかない、というよりはどういうものなのか実感がわかなかった。
「にこなに言ったって無駄に決まってるでしょ。暇さえあればプロレス技を調べているような子なんだから。」
「えぇ~。
我々の青春は1分1秒も無駄にしてはいけないのだよ?」
呆れた調子で間に入ってきたのは、ひよりんとともにニコナと仲の良い琴子だった。
「それでも! ちゃんと断るなら断らないと。後で面倒なことになるよ?」
「はーい。」
琴子の忠告にニコナは面倒臭そうに応えると、鞄を持って席を立った。
ひよりんはくるくるとニコナの周り回り、早くも次の話題をふってくる。
「ねぇねぇ、帰りにあそのこアイス屋さん行こうよ?」
「一昨日も寄ったばかりなのでは?」
琴子がすかさずたしなめる。
「あー、ごめん。今日はちょっと寄るとこあるから、明日にしよ?」
「えぇ~!」
琴子はさておき、ひよりんは誘いを断ったニコナに対し明らかに不満の表情をぶつける。
苦笑いしながら琴子はひよりんをなだめ、ニコナの方に振り返った。
「道場?」
「ま、そんなとこ。」
ニコナは駅で二人に別れを告げ、いつもとは反対方向の電車に乗った。イヤホンを付け、スマホに入れている曲をランダム再生する。軽快なロックが流れ出し、わずかな空間だけ外界の喧騒から切り離され、自分だけの空間となる。
「あやしいやつの臭いがする」だとか「危険な香りがする」だとか、鼻で感じる本当の「におい」ではないのに、そういった感覚や直感のようなものを「におい」で表現することがある。ニコナもただなんとなく「桃太郎」なる人物、自分と同じであれば「転生」した人物が、学校から4つ先の駅を降りたあたりにいるような気がした。
これも「犬」に転生したことによる「嗅覚の発達」といったところなのだろうか。
揺れ動く電車の車内。流れゆく車窓から見えるビルや通りを歩く人々。眠っているのか目をつぶって静かに座る初老の男。何もかも見慣れた日常。確かに昨日と同じ今日ではないかもしれない。あたしと同じ。数日前のあたしと今のあたしは変わらない。でも同じあたしではない。
自分は今、何をしたらいいのだろう。モヤモヤする。使い方はわかる、でも使い道のわからないリモコンを渡された気分だ。ニコナに「細かいことは気にするな」とでも言うようにイヤホンから陽気なヒップホップが流れたが、やはりこの心のモヤモヤは流れる車窓の風景のように流し去ることはなかった。
こういうのは、あたしらしくない!
目的の駅に着き、改札を抜けるとニコナは勢いよく走り出した。直線距離にして1km弱。「桃太郎」なる人物はそこにいる、はず。
「桃太郎」はあたしのこの心のモヤモヤをどうにかしてくれるだろうか。きっとどうにかしてくれる予感だけはする。少なくとも今あたしにできそうなことはそんなことぐらいしかない。「桃太郎」はどんな格好をしているのだろう? まさか鎧兜に刀を帯刀はしていないだろうけど。
道を迂回するのがまどろっこしくなったニコナは、そのまま助走をつけると前転宙返りで二回跳躍しながら、民家の塀、屋根へと飛び移った。短めのスカートの端が大きく揺れる。ニコナはイヤホンを外し、五感を前方へと集中させた。小さな風が後ろ髪を撫でたのを合図とするかのように屋根伝いを走り出す。
あ、いた!
想像していたよりは貧弱そうな二十歳ぐらいの男であったが、間違いない。ニコナは先回りするように塀の上へと降り立つと、そこにしゃがみ込み男を待った。
「なぁ、にぃちゃん。あんた桃太郎だろう。」
軒島ニコナは、このモヤモヤな気分を「この男になら全部ぶつけてもいいかもしれない」と思いながら声をかけた。